しかし、そのシステムを維持する負担が3倍以上にもなると、それを放置してよいものか、是正すべきか・・・・。
介護保険料の地域格差是正へ…厚労省が方針転換
読売新聞 10月22日(木)17時43分配信
厚生労働省は、地域間で大きな差が生じている介護保険料の是正に乗り出す。
従来、住民の理解を前提に、保険料の地域差を認めてきたが、年間10兆円に及ぶ介護費用の伸びの抑制や、地域差による不公平感を解消するため方針を転換する。保険料を押し上げる要素を全国比較できるオンラインシステムを構築し、保険料が高い自治体で過剰なサービスがないかを分析し、見直しを促す。来年早々の同省の社会保障審議会で検討する。
介護保険料は、高齢化率や必要なサービス量などを基に各市町村が決め、3年ごとに改定する。2015年度は全国平均で月5514円で、最高の8686円(奈良県天川村)と、最低の2800円(鹿児島県三島村)の間で、差は最大3・1倍に達している。
従来、住民の理解を前提に、保険料の地域差を認めてきたが、年間10兆円に及ぶ介護費用の伸びの抑制や、地域差による不公平感を解消するため方針を転換する。保険料を押し上げる要素を全国比較できるオンラインシステムを構築し、保険料が高い自治体で過剰なサービスがないかを分析し、見直しを促す。来年早々の同省の社会保障審議会で検討する。
介護保険料は、高齢化率や必要なサービス量などを基に各市町村が決め、3年ごとに改定する。2015年度は全国平均で月5514円で、最高の8686円(奈良県天川村)と、最低の2800円(鹿児島県三島村)の間で、差は最大3・1倍に達している。
最終更新:10月22日(木)17時45分
ワシなんか、この記事見て、まず思ったのが「同じ日本人で、その差はひどいやろ」というもの。
ところが、一方で、ケチな性格が頭をもたげてきたりもします。『沢山サービスを受けているところと、必死でサービスを押さえているところが同じになっても良いのか?』なんて、思ったりするんですね。さらに、こうした事態を平均化した時に現れる現象として考えられるのが、「使わないと損」という一種のモラルハザード。
それに、経営基盤が大きくなるとワシらの想像力は、その経営内容を認識できなくなるんじゃないかと思ったりします。つまり、「肌感覚として保険料」がなくなると、自らが参加して経営していこうという意識の喪失につながるんじゃないでしょうか?
そこを国としては、オンラインシステムの導入などでサービス内容の比較制限を行うようですけど、そうなると、実際に、どうしても必要としている人へのサービスをカットにつながる恐れが考えられるんですよね。
それぞれの地域で、与えたり、与えられたりするサービスの範囲と言うのは違いがあると思うんです。サービス資源の違いも大きく影響しますしね。ある意味、地域の歴史と文化の違いが、そこには表れているんではないでしょうか。
そこを均一化するというのは、果たして、ワシらにとって平等の実現なんでしょうか。
戦後、民主主義の定着過程では、全て同じにしないと許されないという風潮もありました。しかし、数字の上での均一性を確保しても、生活の中身は地域の文化・資源の中で決まっていくことで、数字の上での均一性がむしろむなしさを増幅するという場面もありました。
今、介護保険料の均一化の動きをどのように見るべきなのか。(もちろん、国には国のたくらみがあるんだろうけど)なんでも、表面的な均一化を求めるのが、果たしてワシらの「生活の充足」という満足度の均一化につながるのか慎重に考える必要があると思うのですが、こんなの屁理屈?
日本人と西洋人の最大の違いは、「日本人はあいまいさを受け入れることが出来る」という所です。あいまいな状態の存在を容認することで、お互いの平穏を維持してきたのです。しかし、西洋の人々は、白か黒か、でしか判断できない。(多くの人が・・・)
日本人は「足るを知る」という心を持ち、目の前に美味しそうな御馳走があっても、手を止め、他の人に譲ることが出来る。
民主主義の国の在り方を考えるとき、数字だけで考えるのではなく、その数字の裏に流れているそれぞれの地域の歴史や文化をキチンと考慮してこそ、地に足のついた議論が出来るような気がします。
「安ければ、何でも良い」という考え方は、日本版民主主義にはそぐわないときがあると思うシカリさんでした。
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