江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

騙す、誤魔化す、嘘をつく、日本人の群れ

日本人の倫理観が失われ始めていると嘆かれだして久しいが、昨年からの状況は我慢の限度を越している。










最近の「嘘つき三大日本人」は、なんといっても政治資金としてお金を借りながら個人的借り入れと言い張っている前東京都知事猪瀬直樹、そんなの党じゃなかった、みんなの党の渡辺なんとか、そして、押しも押されもしない嘘つきであろう佐村河内守




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最近の嘘つきの特徴は、ウソがばれても「ごめんなさい」ではなく言い訳に固執する点でしょうか。どうしようもない音楽家なんか、記者会見で逆切れする始末。その様子をニュースで見たワシは、汚い汚物を見せられたようで吐き気がしました。











もう一つの特徴は、猪瀬氏らに象徴されるように、それまでは散々人のことを批判していたにもかかわらず、自分のこととなると、言い訳、誤魔化しに狂奔すること。「たけしのTVタックル」とか「たかじんのそこまで言って委員会」とかの番組で猪瀬氏は、どれほど立派な言葉を並べて人々を批判し、叩いたことだろうか。








もう一人、隠れた嘘つきがいることにはご注意。それは、ワシがこのブログでたびたびやり玉に挙げるあの人、そう「安倍晋三」閣下です。


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最近の嘘は、戦争が出来る国づくりのために、なんとしても武力行使を認めさせたくて集団的自衛権による武力の「限定的行使」などという屁理屈。











安倍総理は、こう言っています。「アメリカのイージス艦めがけてミサイルが飛んできているとき、同盟国の日本がそのミサイルを撃ち落とすのは当然ではないか。」












こんなアホな話がもっともらしくまかり通って、テレビでも国会でも論議されています。でも、言っていることを丁寧に確認してみてください。仮に、戦争をしようと言う国が、このミサイルは何々にめがけて何時何分に発射しますと言いますか?さらに仮説を重ねて、そんなミサイルが飛んできたとして、日本の艦船や基地から発射したミサイルで撃ち落とせますか?













迎撃ミサイルの実験は、発射時間もコースも分かったうえでの実験で、それもなかなか命中しないので有名ですよね。政治家の皆さんは、そんなことは百も承知で言っているのです。なぜか。ただ、「発射する」という行為にのみ意義があるのです。











さらに、この議論の前提としては、「同盟国間は相手が攻撃されたら、同盟国が仕返しをしてくれる。」という幼稚な発想があります。しかし、アメリカの国防関係者は、「日本が軍事攻撃を受けた時にアメリカは軍事行動を起こすのか」という質問に「ウクライナでの対応と同じレベルになる」と答えている。つまり、いきなり軍事的行動で支援する国などないのです。まずは、様々な制裁を科して外交圧力で対話に持ち込もうとする、これが常識です。












なのに日本の政治家は、嘘を並べて戦争ごっこの出来る国づくりを目指している。どうして日本は、公人から一般人まで、こうも嘘つきが大手を振って生きられるような国になってしまったのでしょうか。







・・・嘘をつくこと、あるいはごまかしは、等しく臆病とみなされた。武士は自分たちの高い社会的身分が商人や農民よりも、より高い誠の水準を求められていると考えていた。「武士の一言」、あるいはドイツ語でこの言葉の同義語にあたる「リッターヴォルト」(騎士の言葉)は、断言したことが真実であることを十分に保障するものであった。・・・

(「武士道」三笠書房新渡戸稲造著)72Pより








嘘つきは、上に書いてあるように臆病者のすること、卑怯者のすること、だったはず。それなのに、嘘をついてもさして悪かったよな顔をしない。なぜだろう?そう考えていて、ふと思いついたのは、『マスコミで叩かれても、身近なところでは波風が立たない社会になっているからでは?』ということです。つまり、地域社会の崩壊が人間の規範意識を薄弱にし、また、助け合いの気持ちも、悪を是正しようという意識もなくなっているのではないか、ということです。











他にも、色んなことが考えられます。成果主義に偏り過ぎて過程をおろそかにする風潮(おぼちゃんもそうですね)。視野が狭く短期的視点でしか見れない。自己中心的な思考の持ち主が増えている。悪いことについて自ら律する精神的支柱がなくなっている。









こうしたことの数々を考えた時。やっぱり、地域での「しがらみ」の欠如は、「類的動物(自分・群れのことだけでなく広く類的に考え行動が出来る動物)」としての人間のタガを外し、その時、今の利益だけを追い求める快楽的生き物に人間を堕落させているのではないかと思うのです。












知らないオジサンが注意したり、タバコ屋のおばさんがお見合い写真を持って来たり、色んな意味で関わりあう社会。そんな社会がなくなったことで日本人はケモノ化しているのではないでしょうか。では、そうした傾向はいつ始まったのか。上で参考にした『武士道』に、このような記述があります。








日本に怒涛のように押し寄せてきた西洋文明は、わが国古来の訓育の痕跡を消し去ってしまったのであろうか。一国民の魂がそれほど早く死滅してしまうものとすれば、それはまことに悲しむべきものである。外からの影響に対していともたやすく敗退するものならば、それはきわめて貧弱な魂といわねばならない。・・・

(「武士道」三笠書房新渡戸稲造著)168Pより












この「武士道」と言う著書は、明治三十年に新渡戸稲造アメリカで書いたものです。つまり、もう、その頃には日本人のタガが外れだしていたということです。ワシも、日本人はこれまで三回タガが外れる機会があったと考えています。その一回目は「明治維新」という嘘で始まった政権交代。あとは、第二次世界大戦での敗戦とバブル期。











そして、今、第四回目の危機を迎えていると考えています。それはTPPという国境をなくす仕組み。全てを溶かしてしまう怖い仕組みが作られようとしていますが、それはさて置き、私たち日本人は、じっくり、これで良いのか考える必要があると思うのですが、如何でしょうか。















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