歴史のミステリーゾーン五島(二つの正月)
皆さん、お早うございます。
五島地方、今日は、青空ものぞき雲も多い空模様でスタートです。
今から60数年前の話しですが、シカリさんは「二つの正月」を楽しんだ記憶があります。
当時、シカリさんの家はまだ妹や弟も生まれていず、ワシと父母は、祖父母とともに生活していました。
その生活の中で、二つの正月を経験したのです。
まず、1月1日の正月。
そして、それからひと月ほどして、もう一つの正月。
意味も解らず、ただただ、御馳走にありつけることで、嬉しくてたまりませんでした。^^;
もう、皆さんはお判りでしょうが、新正月と旧正月ですね。
シカリさんの祖父は、農業の傍ら雑木を切り出し、煮干し製造が盛んな地区(奈留地区)に煮炊き用の薪材として売っていました。
その薪材を運ぶ仕事をしてくれていた人がキリスト教の人で、新正月には祖父たちも御呼ばれして御馳走にあずかり、お土産までいただいて帰っていたのです。
そして、旧正月には、こちらに来ていただいて、みんなでお祝いをしていたというわけです。
二つの文化が交流する地区ならではの経験です。
ちなみに、五島とキリスト教の関わりは、次のようになっています。
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1566年 五島にキリスト教伝道
第18代藩主・純定の要請により修士アルメイダと導士ロレンソが来島。純定の次男・純堯が洗礼を受ける。
1607年 藩主・玄雅、領内に教会堂の建設、神父の居住を許可。
1624年 藩主・盛利によるキリシタン弾圧激化
以降、信者数は減少し壊滅したと伝えられる。
1797年 第1回公式移民到着(六方の浜に。108人)
以後、約3000人が五島各地に移住した。
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アルメイダたちは、島原半島の口之津を1566年1月13日に出港し、福江(江川港)に1月21日に到着したそうです。
一旦途切れたキリスト教ですが、再び、五島にキリスト教徒が住むこととなります。
1796年の五島藩と大村藩の間で結ばれた「百姓移住協定」の目的は、『農業生産力の向上を目論んだ五島藩とキリシタンの追放を目論んだ大村藩の意向(堂崎天主堂献堂百周年記念誌10P)』とされていますが、これにより逐次、キリスト教徒の皆さんが五島に移り住むこととなったのです。
この際の受け入れ港は、江川港ではなく、約3キロメートル離れた六方浜でした。
なぜ、受け入れの港を変えたのか。
それは、当時、藩内は不作続きで情勢が不安定で、キリスト教徒の皆さんと藩内の一般人を会わせないためだったと伝えられています。
実に、こと細かに計算されての移住受け入れだったのです。
近年、五島を紹介するテレビ番組などで、『キリスト教徒たちは迫害を逃れるために海を渡り五島を目指した』と紹介されますが、確かにそのような側面もありますが、実際は、五島藩による「移住政策」として受け入れられていたのです。
居住地区も仏教徒のいない、荒れた山野を指定して割り当てられていて、決して、移住者の方々が自由に居住できたわけではありません。(荒れた地をあてがわれた皆さんは、それはそれは苦労されたのです。)
こうして、歴史的には、紆余曲折を繰り返しながらも、二つの宗教の信徒たちは、庶民レベルではワシの爺さんたちのように交流を続け、助け合い、喜びを共有しつつ時を紡いできたのです。
現在の日本人の一部には、排外主義的な活動で生活を立てている方々もいますが、もう少し、視野を広げて子々孫々に恥ずかしくない生活を送られたらいかがだろう、と思いますね。
くしくも今、五島市では人口減少対策として移住政策を行っています。
最近の調査によると、移住先としてトップに挙げられているとのお話しでした。
参考のために、五島市の移住者を紹介するNHKの番組や、五島市の移住者支援HPを貼り付けますので、よろしかったらご覧くださいね。
五島市移住定住促進サイト 五島やけんよか!|住んでみらんかな 五島やけんよか! (city.goto.nagasaki.jp)
今日も最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
今日一日が、皆様にとりまして、素晴らしい一日となりますようお祈りいたします。
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<1月18日の誕生花>
花言葉:青春のはじまりと悲しみ、青春の恋