江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

ブログ生活10周年・・・で?・・・読み物でもアップします。


シカリさん、何をトチ狂ったのか良い歳をしてブログを始めたのが2007年6月21日。

以来、五島情報であったり、下手な詩をアップしたり、愚痴をダラダラ書いたり、偶然このブログにおいでの皆さんは、大変なご迷惑をこうむったことでしょうね~。

申し訳ございません。そして、ありがとうございます。

10年の節目に何か気の利いた記事でもと思ったのですが・・・・ネタがありません。

で、ずいぶん昔に書いたSF??みたいな読み物をアップします。江戸時代と現代を行き来する訳の分からない読み物ですが、ひょっとしたら面白い部分もあるかもしれません。2回くらいに分割してアップしますので、よろしくお願いします。

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「ブログ・ハイジャッカー」


1、はじまり


 ある日、五島藩主・盛利のブログにはこれまでにない訪問者が訪れていた。
 これまで、1日に10人程度の訪問者だったが、この日は、なんと200人も訪れていたのである。
 盛利も家来達も大喜び。
 だが、そこには大きな仕掛けが・・・。


 「どうじゃ、これは大したものじゃ。余がアップしておった写真がよかったのかのー。」

 「殿、それもございますが、殿の文章がよろしかったのではござらぬか。」
 「そうか。余の文章もよいか。どうじゃ、つばき姫。大したものであろう。」


 姫は、何も答えることはなかった。
 つばき姫にとって、盛利がブログに熱中することに不満はないものの、手放しで喜べるようなことではなかったのである。


 盛利が、ブログを始めたのは2ヶ月前。
 それまでは、生活も不規則でパチンコ三昧。

 それというのも五島藩は、城も無い小さな藩で、これと言ってすることもなかったのである。
 つばき姫に小遣いをせびっては、1日に1両も2両も使い果たし、挙句の果てには、五島藩伝来の掛け軸を家来に持たせて質屋に入れる始末。
 こうした盛利の放蕩ぶりに業を煮やした姫は、ついに切れた。


 「殿は、米も作りませぬ、魚も釣りませぬ。私どもの生活費は、領民からいただいた年貢でまかなっているものでございますぞ。それは、よくご存知のはずでございましょう。それにもかかわりませず、殿の一日は、パチンコ三昧。姫は、領民に申し訳が立ちませぬ。どうか、もそっと世間のことをお勉強なさりまして、藩のために、領民のために、なにとぞご活躍くださりませ。」


 これが、2ヶ月前のこと。




2、ブログの楽しさ


 まさか、自分のブログを誰かにコントロールされているなんて、誰だって、考えもしないだろう。

 ときは、寛永176月。
 つばき姫に、一喝された盛利は、ただ、おろおろするばかり、なにせ、自分の親にすら叱られた事がなかったのだから・・・。

 これまで、自らの意思で何かに挑戦するということもなかった盛利は、姫から注意を受けたからといって、変わりようもない様子だった。

 それを見かねたのは、嫡男・盛次(もりつぐ)。


 「父上、インターネットでも始めてはいかがですか。あちこち、お出でにならなくとも、世の中のことが手に取るようにわかるのですよ。」

 「そうか。折角の盛次の勧めじゃ、やってみようかのー。」


 早速、盛次のパソコンを借りてインターネットというものを体験することとなった盛利。


  「何やら、面倒じゃのー。」
  「すぐに、慣れますよ。」


  息子に手ほどきを受けながら、4・5日過ぎたころ。


 「この、ヤッホーの一覧にブログなどというものがあるが、これはなんじゃ。」

 「ブログは、巷の人々が書く日記のようなものでござる。」
「ほう、巷の人々は、日記を書いておるのか。賢いものじゃな。どのようにすれば、見ることができるのかな。」


 盛次は、ブログの利用手続きを一通り済ませ、いつでも盛利が参加できるように準備した。


 「なんじゃ、このアイデーナンバーとかパッスワードは、いつも打ち込む必要があるのか。わしは、物覚えが悪いからのー。」
 「父上、それは大事な番号ゆえ、どこぞに書き留めておかれよ。さすれば、お忘れになられても、いつでも見ることができますゆえ。」


 ふんふん、と素直に盛利は、メモをしている。これまでにない態度であった。やがて、ブログに見入ったのか、何も言わなくなり、少し暑いのか扇子でパタパタと胸元をあおいでいる。

 それ以来、ブログをランダムで見ては一喜一憂する盛利だった。


 「のう、盛次、このルピア姫なるお方は、とても苦労をされているようじゃのぅ。こうやって読んでおっても涙が出てきそうじゃよ。ブログというものは、読むことは出来ても何も手伝うことは出来んし、なにか、歯がゆいものじゃのー。」
 「確かに。ただ、お互いのブログを読んだり、意見を書き込んだりしているうちに、意気投合したものたちは、オッフ会なるものをもようし、会いに出かけては、世間話をしたり、お茶なぞを一緒に飲んだりしているよしにございます。」
 「そうか、オッフ会か。わしが行っても良いのか?」
 「それは、ブログでの長い付き合いで信用されないと難しいのではないかと思いますが。」
 「なるほど、信用か・・・。わしは、母上にも信用されておらんからのー。」

 「父上、母上は信用していないのではなく、父上の奮闘振りが見たいのでございます。」


 このようなやり取りがあって、さらに数日後。
 盛次は、父盛利に呼ばれた。


 「どうじゃ、盛次、ほれ、これがわしのブログじゃ。」


 なんと、盛利はひそかに自分のブログを開設していたのである。

盛利の話によると、家来の木場半兵衛の力を借りて自分のブログを開設したのであった。


 「なかなか、人が訪れてくれるものではないのー。じゃが、のう、この武田隠元とか申すもの、たびたび来ては、何かしら声をかけてくれているのじゃ。ありがたいのー。」


 盛次は、父のブログ開設に驚くばかりで、誰がコメントを残してくれたかなど気にも留めなかった。
 いろんな人が訪れ、いろんな人がコメントを残してくれる。
 ブログとして、当たり前のことであるし、武田隠元なるものが何者であるか、この時点では、誰も知らないし、誰も気にしていなかったのである。  


 
3、藩制問題研究所


 場所は変わり、ここは江戸。時は、寛永171月。

 江戸にある武田隠元の「藩制問題研究所」には、あるプロジェクトが持ちかけられていた。


  「今回は、ちょっと大きなプロジェクトだ。無題君、君は五島藩の資料を集めてくれないか。」


  社長の武田隠元は、部下の無題勝山に新たなプロジェクトの下準備を指示していた。


  「どんなプロジェクトですか。」


  無題は、聞いた。


 「すまんが、まだ、君達にも話すことは出来ないんだ。」


 すると、秘書の西山須美子が心配そうにつぶやいた。


 「私ゎ、なんとなく、そのルート知っているわけよ、で、ちょっと、気になるわけ。でも、これも仕事だし、なんとか処理しないといけないわけよ。でも、でも、やっぱり怖いルートだって思うわけ。え?怖がっているのは誰だって?あたしだよ!!」
 「パッパパヤーパー、パッパパヤーパー、パヤパー、パッパパヤーパー。私は~、五島藩に~行きます~~。五島藩に~行って~~、五島藩の事を~調べます~~。五島藩の~昔から~~、現在のことまで~~、調べて来ます~~。そして~、それを~~A4の用紙に~横書きにして~~、レポートとして~~、社長に報告します~~。」
 「あんたは、呑気だよ。なんでも上から下に流したり、左から右に流せば良いってもんじゃないんだよ。」


 そんな社員達のやり取りを聞きながら、社長の隠元は悩んでいた。いわゆるコンサルタン業を営んでいる隠元にとって、毎月の営業に困るようなこともなく、それなりに成果は収めている。二人の社員と自分の生活を保障するには、現在のレベルの事業で十分といえば十分であった。


 今回のプロジェクトが成功すると、それこそ見たこともない巨額の資金を手にすることが出来る。しかし、コンサルタント業として扱ってきたこれまでの案件とは、まったく性格の違う事業であり、その結末は到底自分たちの手の届くレベルのものではないことはわかっていた。それだけに、得体の知れない不安が胸をよぎるのであった。

 そもそも、今回のプロジェクトは、隠元がアドメニア合衆国に留学中に知り合ったボッシュから、持ちかけられたものであった。
 ボッシュは、現在、アドメニア合衆国国防総省の極東戦略研究所の研究員である。
 そのボッシュから電話があったのは、寛永1611月のことだった。


 「隠元、元気にしているかい?ちょっとしたビジネスの話があるんだけど、会ってもらえるかい?」
 「ああ、久しぶり。お前の言うことだから、何時でもいいよ。」


 電話が終わって、数分もするとボッシュはやって来た。 


 「おい、おい、ちょっと早過ぎないかい?」
 「ああ、いや、すまん。断られても来るつもりで、昨日、日本には来ていたんだよ。昨夜は、新宿2丁目で楽しんじゃったよ。」

 「まだ、そんな遊びやっているのか。それで、話しというのは・・・。」
 「そうだな、ちょっと場所を変えたいんだが。」
 「じゃあ、近くで昼食でも一緒にするか。」


 隠元はそう言うと、社員には何も告げずボッシュを連れて出て行った。
 隠元が、帰ってきたのは4時間ほど過ぎた、もうすっかり夕暮れた頃だった。

 夕暮れの江戸は、煮売屋(にうりや)が天秤棒を担いで売り歩く声や、店を構えた煮売屋の呼び込みの声で賑わっていた。
 当時の江戸は、各藩から出張している下級武士や出稼ぎ人夫が多く、それらの人々は当然単身赴任であったため自炊をしており、惣菜などを買い求めることが多かったのである。
 煮売屋があつかっていたのは、煮魚、野菜の煮しめ、煮豆、焼き豆腐など、手っ取り早くおかずになるものであった。
 そうした売り手買い手の喧騒を背に、隠元は帰ってきた。
 事務所に入った隠元は、社員に話しかけることもなく、無言のまま机に座ると、窓越しに江戸城に眺め入ってしまった。


 「社長、私達帰りますね。」


 そう秘書の西山が告げても、隠元は振り返ることもなかった。


 
4、方針決定


  ボッシュと会ってからのひと月ほど、隠元はあちこちの知人と連絡を取り合ったり、図面を広げたり、様々な資料と格闘していた。
 もう数日で、新年を迎えるというある日。
 隠元は、アドメニアに帰ったボッシュに電話をかけていた。


 「この前の話だけど、一箇所だけ該当する場所が見つかったよ。それで、正月早々にでも現地調査をかけようと思っている。そこで、一つ心配なのは、幕府を説得することが出来るのか、ということだけど・・・」

 「隠元、そこは心配しなくていいよ。確実な場所を確保してもらえれば、あとは僕の仕事だ。とりあえず、着手金を送っておくよ。」
 「わかった。それから、君と僕の関係が表に出ることはないんだろうね。特に事前調査を僕の会社がすることも。」
 「大丈夫だよ。全て僕がやったことになるのだから。」
 「そうか。それを聞いて安心したよ。とりあえず、現時点で調査した内容と場所がわかる地図をメールで送るよ。」


 ボッシュの約束で少し安心したのか、隠元は久しぶりに二人の社員を飲みに誘った。

 飲み会となると、いつものとおり西山須美子の甲高い声と、無題勝山の低音のブルースをいやと言うほど聞かされるのである。

 「ニシヤマ~~、スミコダヨ~~。」
 「パッパパヤーパー、パッパパヤーパー。」

 飲み会のときは、いつもこの調子で、二人とも周囲のことなど無頓着。完全な自己中であった。そして、この時だけは隠元はこの二人を採用したことを悔やむのであった。


 年が明けて寛永17年正月4日。

 出勤してきた無題と西山を前に、隠元は新しいプロジェクトの指示をしたのであった。          


5、無題の行方

 寛永171月。
 江戸にある藩制問題研究所では、社長の武田隠元は社員の無題勝山に五島藩の資料を集めるよう指示を行っていた。
 指示を受けた無題は、目的も告げられないプロジェクトにいささか戸惑いを感じていた。
 新たなプロジェクトの指示を受けた無題が、姿を消したのは2月も下旬のことだった。


 「西山君、最近無題君を見ないが、どうしたんだい?」

 「私、知りませんけど。社長にも連絡ありませんか?出張するなら、きっちり旅費を請求する人なのに、請求もされてませんからね。どうしたんでしょうね。電話もメールも通じないんですよ。ホントに変な人なんだから。」
 「そうか、当面急ぐ仕事もないし、ほっとくか。」
 「ほっといて良いんですか?そうですね。いなくても困ることもなし、ほっときましょうか。」

 寛永176月下旬。
 行方不明だった無題が、ひょっこり出勤してきた。

 「無題君、どこ行ってたのよ。電話もメールも通じないなんて。」
 「実は、2月に結婚しまして、ちょっと新婚旅行に行って来たんですよ。オーストラリアの東海岸。帰りは、福岡空港に着いたもんで、例のプロジェクトのこと思い出しまして、そのまま五島藩の調査に行って来たってことですよ。」
 「はあ?結婚したの?社長も私も結婚式呼ばれてませんけど。」
 「結婚式なんて面倒なだけで、しませんでしたよ。五島藩までの旅費はこれだけですので、よろしく。」
 「あれ、君、ブルース調の語りは?やめたの?」
 「一応、僕も結婚したわけで、社会人としてキチンとしないといけないかな?なんて、自覚したわけですよ。」
 「ほおー。で、お土産は。」
 「・・・・・。」


 気まずかったのか、レポートを社長の隠元に渡すと無題は、さっさと帰ってしまった。

 無題が作成したレポートには、五島の藩の現状が記載されていた。


五島藩調査報告書概要》
   15000石、藩士180名、人口約21000
   かつては、朱印船貿易を行っていたが、寛永12年に禁止となった。
交易相手・・・カンボジア、台湾、安南、ルソン、シャム
     商品(持ち出し品)・・・銅、鉄刀剣、銅器、漆器、蒔絵、樟脳、硫黄、屏風、扇子、食料品
     商品(持ち込み品)・・ 生糸、絹、絹織物、ドンス、更紗、時計
砂糖、薬品、香木、鹿皮、陶磁器
朱印船廃止後、異国船が頻繁に出没するようになり、警備の増強が必要となっている。遠見番所7箇所を4箇所増設し、11箇所とした。
その他、この数十年の主な出来事。
朝鮮の役(文禄元年、1592年)への出兵。
       騎馬27人、歩武者40人、足軽120人、小人38人、乗馬2頭、
下夫280人、船頭水主200人、軍船17隻、属船8隻、その他用人、祐筆、外科医、小物見役等24
江川城消失(慶長198月、1614年)
仮陣屋構築(寛永15年、1638年)
島原の乱寛永15年、1638年)、青方の加勢を得て120名派兵。


  レポートを受け取った隠元は、チラッと見ただけで、机に放り出してしまった。
 4ヶ月近く姿を消していたわりには、内容のない報告であった。


 
6、殿のブログ的生活


 翌日、出勤してきた無題は、隠元にポツリと言った。


 「五島藩の殿は、最近ブログを始めたとか、聞きましたけど。」
 「ほう、ブログをね。で、ブログタイトルは調べてきたか?」
 「はい。『殿のブログ的生活』です。藩の運営についての考えや悩みを書いているようです。」
 「そうか、それは良い情報をつかんできたな。」

 そう言うと隠元は、自分のパソコンに向かった。

 五島藩主・盛利の朝一番の仕事、それは自分のブログの訪問者の確認と数少ないコメントへの返事を書くことだった。
 昼間とて、城での執務は決裁が主で他ですることもなく、決裁が済むとさっさと自室にこもりブログの記事を書いているのであった。
 そんな盛利のブログに、最近、必ずコメントを寄せる者がいた。

 「盛次、この隠元とかいう者、最近、良く声をかけてくれるのじゃ。どこのお方かのー。」
 「父上、どこの誰かわからないところが、お互い、良いということもございますゆえ。」
 「そうか、そうか。それにしても良くわしの意見に賛同してくれるのじゃ。なんとなく気分のよいお方じゃ。」
 「そうでございますか。きっと、父上と同じようなお考えのお方なのでございましょう。」

 その数日後、再び、盛次は盛利の部屋に呼ばれていた。


 「どうじゃ、ブログを使って藩の活性化が出来ないものかのー。」

 「藩の活性化でございますか?良く理解できませぬが。」
 「いや、このブログを使って五島藩の魚とか、カンコロ餅なぞを売れないものかの~。」
 「物を売るのでございますか。それならば、ブログよりホームページの方が良いかと思いますが。」
 「ホームページか・・・。で、そのホームページを作るのは、お金が掛かるものなのかな。」
 「いいえ、ブログと同じでこのヤッホーのサイトを使えば無料で作れますよ。ただ、システムとかデザインが大事ですから、そこは専門家にお願いしたほうがよいかと思います。」
 「そうか。ヤッホーというサイトは便利なものじゃのー。そうじゃ、余の考えをブログに書いてみよう。だれぞ良き考えを教えてくれるやもしれぬからのー。」


 盛利は、その日のブログにさっそく藩の活性化とホームページの開設について、アイデアを求める記事を書いた。


 その記事を読んだ江戸の隠元は、小躍りしていた。


 「西山君、無題君にも伝えてくれないか。このブログをお祭りしてくれないか。」

 「お祭り?なんです、それ。」
 「ダミーを使ってでも訪問者を集中させてくれ。それと、殿の意見を褒め上げてくれ。」
 「それだけで、いいんですか?」
 「ああ。」