おふざけ読物 『ブログ・ハイジャッカー』 (その3)
皆さん、お早うございます。
五島地方、今日は、雨模様でスタートです。
ところで、シカリさんのブログ、愚痴ネタも枯渇気味で、「何か他の物を」と考えた挙句、10年以上昔(ヤフーブログにお世話になっていたころ)に書いた読物をアップしようと思いつきました。
江戸時代と現代をゴッチャにしたような、ふざけた読み物(ただ、政治ネタがお得意のシカリさんですから、どこまでおふざけなのか・・・)です。
登場人物では、書いた当時のお笑い芸人をもじった人などが登場しますので、若い人たちには理解できないかもしれませんね。御免なさい。
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「ブログ・ハイジャッカー」(その3)
8、隠元からの提案
五島藩主・盛利は、この数日、気分の良い日々を過ごしていた。
ブログへの隠元の書き込みは、盛利の藩の活性化策を褒めたたえるものであった。さらには、ホームページ開設の手伝いをしても良い、との申し出まで付け加えてあった。
盛利にとって、ホームページの開設がどのようなものか、費用がどのくらいかかるものか、皆目わからない中での隠元の申し出は、何物にも変えがたくありがたいものであった。
早速、依頼したのは言うまでもなかった。
そうした隠元との藩の活性化についてのやり取りが続いていたある日、盛利はブログを見てビックリした。
これにまでにない200名という訪問者が盛利のブログを訪れていたのである。これまでの盛利のブログには、訪問者は1日に10人前後しか訪れるものはなく、それこそのんびりコメントを読んだり、返事を書いたりしていたのであった。
「これは大変なことじゃ。わしのブログは、シカリ殿の『江戸っ子でぃ』と同じように、毎日10人程度しかお客さんはいなかったのじゃが。いったい、これはどうしたというものかのー。何が良かったのかのー。」
大騒ぎで、家来を呼び出したり、つばき姫を呼んできたり、自分のブログへの評価を求めるのであった。
浮かれる盛利や家来達を冷ややかに見ているのは、つばき姫であった。
「殿、何事も波がございます。それにブログとやらの客が多いからといって、五島藩には何もお変わりはございませぬ。もそっと、人々のためになることは出来ないのでございますか。」
「いや、これがなかなか良い結果につながりそうなのじゃ。他でもない、盛次の進言によってホームページなるものを作ることにしたが、これで五島藩の品物を売ることが出来るのじゃ。どうじゃ、大したものであろう。」
「それは、確かな取引でございますか?朱印船の取引のように幕府が後ろ盾としてあるのならば安心でございましょうが・・・。」
つばき姫は、それ以上、続けなかった。
盛利と家来達の浮かれ様から、自分の意見など受け入れられないことがわかっていたのであった。
事実、盛利と家来達は、ブログの話から、ホームページによる藩の活性化の話しに進み、それこそ蜂の巣を突っついたような有様になっていたのである。まるで、ホームページの開設で五島藩が見違えるように活性化するような、これまでにない人々が五島藩を訪れ、江戸と見違えるような活気を帯びるような、そのような勢いで、話しは膨らんでいたのであった。
つばき姫は、ポツリと言って、その場を離れた。
「はやり病のようなものじゃ、そのうち覚めるのであろう。」
当然のことだが、その誰一人として、隠元の策略に気づいていなかった。
9、売り上げがない
ちょうど盆の初日のことだった。街のあちこちでは、霊を弔う念仏踊りの鐘の音が響き渡っていた。
「これは、これは、遠い所、わざわざお出でいただきかたじけない。どうぞ、まずはお茶でも。それとこのお菓子でござるが、これは、我が藩の銘菓で『チャンココ』と申すもので、なかなか美味しいものゆえ、どうぞご遠慮なくお召し上がりくだされ。」
「あー、いや、殿。直々にそのようにしていただきますと恐縮でございます。それにしましても『チャンココ』とは、珍しいお名前でございますな。」
「おう。それが、ほれ、今、あちこちから鐘の音が聞こえるでござろう。あれは、こちらの念仏踊りの囃子の鐘の音なのじゃが、あの念仏踊りのことを『チャンココ踊り』と申してな。そこからの由来じゃそうな。」
そう言うと、さっさとどこかへ姿を消してしまった。隠元をゆっくりさせようという盛利の心遣いであった。
次の日、盛次を伴って盛利がやって来た。
隠元がくつろいでいる部屋に入ってきた二人は、早速、ホームページの話を始めた。
五島藩の物産品の話しから、ホームページのデザインの話し、取り引きの方法から、代金の決済の話し。
話しは、次から次へと進んで行った。
「代金の決裁は、どのような方法がよろしいでしょうか。業者の皆様が困ることがないようにしないといけませぬので、確実な方法を選ばれたほうがよろしいかと思います。」
「そうじゃのー。盛次の言うとおりじゃ。品物を送って、代金を受け取れないようなことにでもなったら、わしの責任になるからのー。」
「電子決済もありますが、こちらにはオッパッピー銀行の支店はございますか。」
「そのようなものは、聞いたことがないのー。」
「それならば、最も初歩的な方法ですが、代金引換がよろしいかと思いますが。」
「そうか、それでは、そうしよう。ところで、このホームページを作るための代金は、隠元殿にはいくらお支払いすればよろしいですか?」
「そうですね・・・。ホームページを作る作業はたいしたことありませんので、代金なんか要りませんよ。」
「いや、いや。それでは、五島藩として申し訳が立ちませぬゆえ。遠慮なさらずに・・・。」
「そうですか。それでは、私がこちらに参りました旅費をいただければ結構でございます。」
隠元が江戸に帰り、数日もすると五島藩のホームページが開設された。
そこには、規模の小さな業者30店舗ほどが出品し、五島の物産品を販売できるようになっていた。
「盛次、ホームページの評判はどうじゃ。品物の注文は来ておるのか?」
「はい。早速、注文が入っております。ウニ、イカの一夜干し、椿油などが良く売れているようでございます。」
「そうか。早速売れているのか。良かった、良かった。」
盛利が、喜んだのも数日のことであった。
「父上、大変でございます。注文が殺到いたしまして、どの店も品物が底をついてしまいました。」
「なに?品物がない?それほど注文が来たのか。」
「はい。毎日注文が増えておりまして、ウニなどは三日で底をついてしまいました。」
こうした注文の多くが、実は、隠元の資金で行われているのであった。
10、もっといい話
盛利のブログには、悲鳴にも似た弱音が書かれていた。
折角、藩の活性化のためと思い始めたことが、藩内で生活物資がなくなり、物価の高騰を招く羽目になってしまったのである。当然、藩内の人々の不満は盛利に向けられていた。
もちろん、江戸の人々と違い、農家や漁師である藩内の人々は、食料品に困ることはない。したがって、大きな騒動にはならないまでも、口づてに殿への不満が伝えられていた。
その盛利のブログを見た隠元は、ついに時期が来たことを察し、アドメニア合衆国のボッシュに電話を入れていた。
「ボッシュ、いよいよ、動こうと思うが、幕府のほうには手配はすんでいるのだろうか。」
「幕府のほうは、先月、大統領特使を派遣して、合衆国の意向を伝え了解を取り付けているよ。そちらが契約までの段取りをしてくれれば、後は、幕府のほうが動くことになっている。」
「わかった。1ヶ月もしないうちに、形を見せることが出来ると思うよ。じゃあ、そのときに連絡するから。」
電話を切った隠元は、盛利のブログにあるメッセージを入れていた。
そのメッセージを見た盛利は、今度こそは、藩の活性化が出来ると大喜びした。
隠元からのメッセージには、幕府の意向により五島藩内の土地を購入し、広大な敷地造成をしたいということであった。ただ、何のための敷地造成なのか、なぜ幕府が関係するのか、詳しいことは書かれていなかった。
隠元の提案では、三井楽という藩内では珍しく山の少ない地区の土地を買収したいとのことであった。しかも、その後の造成工事には、藩内の人々に働いてもらう考えだという。
三井楽という所は、古くは遣唐使船が風待ちをした所として知られているが、集落のほとんどが農村で、大豆と芋の栽培を行っていた。
その畑では、防風林として椿の木を使用しており、秋口には椿の実を採り、椿油を作っていた。
そのような土地をどのように使おうというのだろうか。
盛利は、家来たちを集めて意見を聞くことにした。
集まったのは、盛次、家老の七里善喜、木場半兵衛など、十数名の者たちであった。
物産品販売で痛い目に遭った盛利は、今回は慎重に事を進めようというのである。
家来たちは、幕府の事業であるとの盛利の説明に諸手を挙げて賛成した。ただ、三井楽掛(かけ:村の意)の坂本力之介だけは、土地の用途が示されていない事に疑義を示した。しかし、それによって会議の流れが変わることはなかった。
隠元が示した条件には、土地代をそれぞれ関係者に支払うこと以外にも、五島藩に対して仲介料を支払うという内容も含まれていた。
盛利には、これ以上の条件はないと思われた。なによりも、隠元の書き込みによると幕府の事業だというのであるから・・・。
11、土地売買契約
「西山さん、僕が作ったダミーのブログ、何に使ったのですか?」
「何って、仕事だよ。第一、今頃何よ。読者の皆さんだって、そんなこと忘れてるよ。」
「あの・・・、昨夜、変な夢見たもので・・・。ひょっとして、何か悪いことじゃないでしょうね。あのダミーで書き込みとかしたんですか?」
「しましたよ!社長命令だから仕方ないでしょう。ワ・タ・シが、しました!それで良い?満足した?」
「いえ・・・、それよりうちの会社、最近、システム開発とかの仕事ないですけど、大丈夫ですかね?」
「大丈夫だから、仕事もしない貴方だって給料もらっているんでしょう。」
隠元の会社が本来の仕事をしなくなって、もう数ヶ月が過ぎていた。にもかかわらず、資金が潤沢にあるのは、アドメニア合衆国のボッシュから今回の事業の前金が支払われているからであった。
ただ、今回は一人ではなかった。幕府直轄である長崎奉行の役人10名を伴っての訪問である。
役人達は、早速、三井楽にはいり土地の検分と農民との土地の買収交渉を行った。
隠元は、盛利ら五島藩の重役と土地の買収と仲介料について協議をつめていた。仲介料には、今後、三井楽での事業に全面的に協力する、いわゆるお世話料としての意味もこめられていた。
隠元から提示された金額に、盛利等は腰を抜かす驚きようであった。
「6万両・・・ですか?」
「そうです。幕府としては、今後10年間は、五島藩にこの事業に関して幕府との取次ぎをお願いしたいとのことで、6万両でお願いできないかとの意向でございますが・・・、少ないでしょうか?」
「あああ、いや、いや、とんでもござらぬ。話しの取次ぎだけで、そのような金子(きんす)をいただいてよろしいものやら。」
「では、この金額でよろしければ、長崎奉行の役人が帰り次第、約定書を作っていただくということで、よろしいでしょうか。」
「む~~、よ、よかろうのう、皆、どうじゃ。」
1両は、現在の通貨に換算すると約10万円。つまり、6万両は60億円に相当する金額である。当時、五島藩の石高は約1万5千石であった。1石も約10万円であるので、15億円の年収があったのであるが、その4年分に相当する金額を示されたのである。
誰一人、反対するものはいなかった。
役人達は農民との土地の売買契約を結び、五島藩との約定書を締結し、1週間ほどで長崎に帰っていった。
隠元は、一人残り玉之浦の白鳥神社に参拝し、西の高野山といわれる大宝寺を訪れ、江戸に帰ったのは10月に入ってからであった。
隠元は、帰りの船の上から福江島を振り返りながら、つぶやいた。
<もう、これで五島藩に来ることもないな・・・>
(つづく)
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今日も最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
今日一日が、皆様にとりまして、素晴らしい一日となりますようお祈りいたします。
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<1月11日の誕生花>
花言葉:自信、はにかみ屋