江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

ブログ生活10周年(その2)


シカリさんのブログ生活10周年を記念しての記事ですが、前回からくだらない読み物をアップしておりますが、今回で終了の予定でしたが・・・。文字数が・・・。

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 7、隠元の策略
 
 次の日の朝、いつものように遅く出勤してきた無題に、西山は社長の指示を伝えていた。


 「無題君、社長から、ダミーを作ってでも五島藩の殿のブログに集中させてくれだって。」
 「それはいいんですけど、僕の給料が振り込まれていませんけど・・・。」
 「はあ?そりゃあ、そうでしょうが、だって、4ヶ月も行方不明だったのよ、貴方。首にならないだけ、ありがたく思わないと。」
 「でも、妻が給料を楽しみにしていまして・・・。」
 「いらないでしょう。4ヶ月も海外旅行を楽しむくらい裕福なんだから。おまけに、職場にお土産も買ってこないくらいケチなんだし。」
 「いや~、海外旅行といっても、妻の実家に帰っていただけで・・・。」
 「奥さん、オーストラリアの人?」
 「はい。・・・行方不明といっても、五島藩の調査もしてきたのですから。」


 二人のやり取りを横で聞きながら、隠元は、いつものように窓の外に眼をやり、五島藩に対する戦略を構想していた。
 少し離れたビルの屋上には、梅雨の終わりを告げるような強い雨に打たれながらアジサイが辛抱強く立っているのが見えた。
 それを見ながら隠元は、つぶやいた。


 「それほど時間をかける余裕もないし、直接、懐に飛び込むか・・・。」
 「社長、僕の給料ですけど、出していただけないのでしょうか。」
 「西山君、1ヶ月分ぐらい出してやれよ。一応調査はしてきたのだから。それと、西山君はブログ仲間を大勢持っていると言っていたけど、何人くらい持っているの?」
 「私のブログ仲間ですか?100人くらいかな?」
 「そうか。私の知り合いと無題君の知り合い、う?無題君は?」
 「さっき、社長が給料出してやれ、って言われた時には、外に出て行きましたよ。」
 「あいつ、知り合いとか、多いのかな?」
 「いないでしょう。これまで、友達と飲み会とか聞いたことないですもん。結婚できたのが不思議なくらいですよ。」
 「じゃあ、ダミーを100件作るように言っておいてくれ。あとは、昨日話したとおりだ。」
 「はい。でも、どのように褒め上げるのですか?」
 「うん。そこは準備が出来てからにしよう。」


 隠元は、五島藩主のブログに書き込みを始め、何がしかの手ごたえを感じていた。少なくとも、顧客として取り込むには、これまでの客よりはやりやすい相手であることは確かであった。
 五島藩主は世間を知らないうえ、かなりお人好しのようであった。なにせ、隠元が書き込むようになって、わずか数回であるにもかかわらず色々相談するようになっていた。
 隠元には、五島藩主・盛利が何かに焦っている様子も読み取れていたのである。

8、隠元からの提案


 五島藩主・盛利は、この数日、気分の良い日々を過ごしていた。
 ブログへの隠元の書き込みは、盛利の藩の活性化策を褒めたたえるものであった。さらには、ホームページ開設の手伝いをしても良い、との申し出まで付け加えてあった。
 盛利にとって、ホームページの開設がどのようなものか、費用がどのくらいかかるものか、皆目わからない中での隠元の申し出は、何物にも変えがたくありがたいものであった。
 早速、依頼したのは言うまでもなかった。

 そうした隠元との藩の活性化についてのやり取りが続いていたある日、盛利はブログを見てビックリした。
 これにまでにない200名という訪問者が盛利のブログを訪れていたのである。これまでの盛利のブログには、訪問者は1日に10人前後しか訪れるものはなく、それこそのんびりコメントを読んだり、返事を書いたりしていたのであった。

 「これは大変なことじゃ。わしのブログは、中須川シカリ殿の『江戸っ子でぃ』と同じように、毎日10人程度しかお客さんはいなかったのじゃが。いったい、これはどうしたというものかのー。何が良かったのかのー。」


 大騒ぎで、家来を呼び出したり、つばき姫を呼んできたり、自分のブログへの評価を求めるのであった。
 浮かれる盛利や家来達を冷ややかに見ているのは、つばき姫であった。


 「殿、何事も波がございます。それにブログとやらの客が多いからといって、五島藩には何もお変わりはございませぬ。もそっと、人々のためになることは出来ないのでございますか。」
 「いや、これがなかなか良い結果につながりそうなのじゃ。他でもない、盛次の進言によってホームページなるものを作ることにしたが、これで五島藩の品物を売ることが出来るのじゃ。どうじゃ、大したものであろう。」
 「それは、確かな取引でございますか?朱印船の取引のように幕府が後ろ盾としてあるのならば安心でございましょうが・・・。」


  つばき姫は、それ以上、続けなかった。
 盛利と家来達の浮かれ様から、自分の意見など受け入れられないことがわかっていたのであった。
 事実、盛利と家来達は、ブログの話から、ホームページによる藩の活性化の話しに進み、それこそ蜂の巣を突っついたような有様になっていたのである。まるで、ホームページの開設で五島藩が見違えるように活性化するような、これまでにない人々が五島藩を訪れ、江戸と見違えるような活気を帯びるような、そのような勢いで、話しは膨らんでいたのであった。
 つばき姫は、ポツリと言って、その場を離れた。

 「はやり病のようなものじゃ、そのうち覚めるのであろう。」


 当然のことだが、その誰一人として、隠元の策略に気づいていなかった。



9、売り上げがない


 武田隠元五島藩を訪れたのは、寛永178月。
 ちょうど盆の初日のことだった。街のあちこちでは、霊を弔う念仏踊りの鐘の音が響き渡っていた。

 「これは、これは、遠い所、わざわざお出でいただきかたじけない。どうぞ、まずはお茶でも。それとこのお菓子でござるが、これは、我が藩の銘菓で『チャンココ』と申すもので、なかなか美味しいものゆえ、どうぞご遠慮なくお召し上がりくだされ。」
 「あー、いえ、殿。直々にそのようにしていただきますと恐縮でございます。それにしましても『チャンココ』とは、珍しいお名前でございますな。」
 「おう。それが、ほれ、今、あちこちから鐘の音が聞こえるでござろう。あれは、こちらの念仏踊りの囃子の鐘の音なのじゃが、あの念仏踊りのことを『チャンココ踊り』と申してな。そこからの由来じゃそうな。」


 そう言うと、さっさとどこかへ姿を消してしまった。隠元をゆっくりさせようという盛利の心遣いであった。
 次の日、盛次を伴って盛利がやって来た。
 隠元がくつろいでいる部屋に入ってきた二人は、早速、ホームページの話を始めた。
 五島藩の物産品の話しから、ホームページのデザインの話し、取り引きの方法から、代金の決済の話し。
 話しは、次から次へと進んで行った。

 「代金の決裁は、どのような方法がよろしいでしょうか。業者の皆様が困ることがないようにしないといけませぬので、確実な方法を選ばれたほうがよろしいかと思います。」
 「そうじゃのー。盛次の言うとおりじゃ。品物を送って、代金を受け取れないようなことにでもなったら、わしの責任になるからのー。」
 「電子決済もありますが、こちらにはオッパッピー銀行の支店はございますか。」
 「そのようなものは、聞いたことがないのー。」
 「それならば、最も初歩的な方法ですが、代金引換がよろしいかと思いますが。」
 「そうか、それでは、そうしよう。ところで、このホームページを作るための代金は、隠元殿にはいくらお支払いすればよろしいですか?」
 「そうですね・・・。ホームページを作る作業はたいしたことありませんので、代金なんか要りませんよ。」
 「いや、いや。それでは、五島藩として申し訳が立ちませぬゆえ。遠慮なさらずに・・・。」
 「そうですか。それでは、私がこちらに参りました旅費をいただければ結構でございます。」


 隠元は、2日間五島藩で過ごして、江戸へ帰って行った。
 隠元が江戸に帰り、数日もすると五島藩のホームページが開設された。
 そこには、規模の小さな業者30店舗ほどが出品し、五島の物産を販売できるようになっていた。

 「盛次、ホームページの評判はどうじゃ。品物の注文は来ておるのか?」
 「はい。早速、注文が入っております。ウニ、イカの一夜干し、椿油などが良く売れているようでございます。」
 「そうか。早速売れているのか。良かった、良かった。」


 盛利が、喜んだのも数日のことであった。

 「父上、大変でございます。注文が殺到いたしまして、どの店も品物が底をついてしまいました。」
 「なに?品物がない?それほど注文が来たのか。」
 「はい。毎日注文が増えておりまして、ウニなどは三日で底をついてしまいました。」

 こうした注文の多くが、実は、隠元の資金で行われているのであった。



10、もっといい話


 盛利のブログには、悲鳴にも似た弱音が書かれていた。
 折角、藩の活性化のためと思い始めたことが、藩内で生活物資がなくなり、物価の高騰を招く羽目になってしまったのである。当然、藩内の人々の不満は盛利に向けられていた。
 もちろん、江戸の人々と違い、農家や漁師である藩内の人々は、食料品に困ることはない。したがって、大きな騒動にはならないまでも、口づてに殿への不満が伝えられていた。

 その盛利のブログを見た隠元は、ついに時期が来たことを察し、アドメニア合衆国のボッシュに電話を入れていた。

 「ボッシュ、いよいよ、動こうと思うが、幕府のほうには手配はすんでいるのだろうか。」
 「幕府のほうは、先月、大統領特使を派遣して、合衆国の意向を伝え了解を取り付けているよ。そちらが契約までの段取りをしてくれれば、後は、幕府のほうが動くことになっている。」
 「わかった。1ヶ月もしないうちに、形を見せることが出来ると思うよ。じゃあ、そのときに連絡するから。」


 電話を切った隠元は、盛利のブログにあるメッセージを入れていた。
 そのメッセージを見た盛利は、今度こそは、藩の活性化が出来ると大喜びした。
 隠元からのメッセージには、幕府の意向により五島藩内の土地を購入し、広大な敷地造成をしたいということであった。ただ、何のための敷地造成なのか、なぜ幕府が関係するのか、詳しいことは書かれていなかった。
 隠元の提案では、三井楽という藩内では珍しく山の少ない地区の土地を買収したいとのことであった。しかも、その後の造成工事には、藩内の人々に働いてもらう考えだという。
 三井楽という所は、古くは遣唐使船が風待ちをした所として知られているが、集落のほとんどが農村で、大豆と芋の栽培を行っていた。
 その畑では、防風林として椿の木を使用しており、秋口には椿の実を採り、椿油を作っていた。
 そのような土地をどのように使おうというのだろうか。
 盛利は、家来たちを集めて意見を聞くことにした。
 集まったのは、盛次、家老の七里善喜、木場半兵衛など、十数名の者たちであった。
 物産品販売で痛い目に遭った盛利は、今回は慎重に事を進めようというのである。
 家来たちは、幕府の事業であるとの盛利の説明に諸手を挙げて賛成した。ただ、三井楽掛(かけ:村の意)の坂本力之介だけは、土地の用途が示されていない事に疑義を示した。しかし、それによって会議の流れが変わることはなかった。
 隠元が示した条件には、土地代をそれぞれ関係者に支払うこと以外にも、五島藩に対して仲介料を支払うという内容も含まれていた。
 盛利には、これ以上の条件はないと思われた。なによりも、隠元の書き込みによると幕府の事業だというのであるから・・・。 



11、土地売買契約


 「西山さん、僕が作ったダミーのブログ、何に使ったのですか?」
 「何って、仕事だよ。第一、今頃何よ。読者の皆さんだって、そんなこと忘れてるよ。」
 「あの・・・、昨夜、変な夢見たもので・・・。ひょっとして、何か悪いことじゃないでしょうね。あのダミーで書き込みとかしたんですか?」
 「しましたよ!社長命令だから仕方ないでしょう。ワ・タ・シが、しました!それで良い?満足した?」
 「いえ・・・、それよりうちの会社、最近、システム開発とかの仕事ないですけど、大丈夫ですかね?」
 「大丈夫だから、仕事もしない貴方だって給料もらっているんでしょう。」


 隠元の会社が本来の仕事をしなくなって、もう数ヶ月が過ぎていた。にもかかわらず、資金が潤沢にあるのは、アドメニア合衆国のボッシュから今回の事業の前金が支払われているからであった。
 盛利の受託の回答を得て、隠元はふたたび五島藩を訪れた。
 ただ、今回は一人ではなかった。幕府直轄である長崎奉行の役人10名を伴っての訪問である。
 役人達は、早速、三井楽にはいり土地の検分と農民との土地の買収交渉を行った。
 隠元は、盛利ら五島藩の重役と土地の買収と仲介料について協議をつめていた。仲介料には、今後、三井楽での事業に全面的に協力する、いわゆるお世話料としての意味もこめられていた。
 隠元から提示された金額に、盛利等は腰を抜かす驚きようであった。


 「6万両・・・ですか?」
 「そうです。幕府としては、今後10年間は、五島藩にこの事業に関して幕府との取次ぎをお願いしたいとのことで、6万両でお願いできないかとの意向でございますが・・・、少ないでしょうか?」
 「あああ、いや、いや、とんでもござらぬ。話しの取次ぎだけで、そのような金子をいただいてよろしいものやら。」
 「では、この金額でよろしければ、長崎奉行の役人が帰り次第、約定書を作っていただくということで、よろしいでしょうか。」
 「む~~、よ、よかろうのう、皆、どうじゃ。」


 1両は、現在の通貨に換算すると約10万円。つまり、6万両は60億円に相当する金額である。当時、五島藩の石高は約1万5千石であった。1石も約10万円であるので、15億円の年収があったのであるが、その4年分に相当する金額を示されたのである。
 誰一人、反対するものはいなかった。
 役人達は農民との土地の売買契約を結び、五島藩との約定書を締結し、1週間ほどで長崎に帰っていった。
 隠元は、一人残り玉之浦の白鳥神社に参拝し、西の高野山といわれる大宝寺を訪れ、江戸に帰ったのは10月に入ってからであった。
 隠元は、帰りの船の上から福江島を振り返りながら、つぶやいた。
 ・・・もう、これで五島藩に来ることもないな・・・



12、自慢する盛利


 大きな契約を終えた盛利は、先日までの商品不足による不安から解放されて、ホッとしていた。


 「つばき姫、今回は大きな仕事が出来たぞ。五島藩は、これまでにない賑わいで、皆の生活も豊かになるぞ。」
 「どのように、なるのでございますか?」
 「そうじゃなー、三井楽の地で大きな工事が始まる。土地を売った農民達は、そこで働くことが出来るのじゃ。」
 「土地を売ってしまった農民は、何人くらいいるのですか?」
 「200人はいるかのー。」
 「200人もの農民が、農地を売ったのでございますか?」
 「ああ、皆、土地を売った金で家を作ったり、墓を作ったりできると大喜びしているそうじゃ。」
 「そうでございますか。」
 「なにか、疑念でもあるのかな?」
 「はい。その者たちは、農地を持っていれば子々孫々まで生活出来るのでございましょう?それで工事が終わった後は、どのようになるのでございましょうか?五島藩で生活出来るのですか?それとも、どこかへ出て行くことになるのでございますか?」
 「そこまではわからぬが、皆も喜んでおるし、今、豊かになれるのであるから、良いではないか。普通に暮らしておっても家なぞ作れぬぞ。」
 「それで良いのでございましょうか。」


 つばき姫は、それ以上続けなかった。
 盛利は、久しぶりにゆったりした気分で自分のブログを見ていた。訪問者も10人程度に戻り、のんびりとコメントを読み、返事を書いていた。
 数日後、盛利のブログにこれまでにない名前の書き込みが見られた。


 「ん?なんじゃ、これは。ムーディー?ムダイ?・・・<五島藩は、アドメニア合衆国に乗っ取られてしまいますよ。土地の売買契約は、解約したほうが良いですよ。一日も、早く。>・・・アドメニア合衆国?乗っ取られてしまう?ワケのわからんことを書き込む人もおるものじゃのー。」


 盛利は、気にも留めずに他の書き込みに返事を書いていた。ここのところ隠元からのコメントは全くなくなっていた。昨日も、先の隠元の苦労に感謝するコメントを送っていたが、返事も寄せられていなかった。
 よほど忙しいのだろう、そう思う盛利であった。


13、アドメニア合衆国人登場、姿を見せる基地


 五島藩が、大騒ぎになったのは11月中旬のことであった。
 なにせ、幕府の事業と聞かされていたのに、工事に現れたのはアドメニア合衆国の軍人達であった。幕府の関係者といえば、通訳として長崎奉行所の役人数人が同行しているだけであった。
 軍人達は、到着すると日をおかず買い取った敷地の周りに鉄条網を張り巡らした。それこそ、あっという間の作業で翌年1月下旬までには、敷地内に宿舎のようなものや途轍もなく大きな倉庫などが作られた。
 2月になると農地を譲った農民達の家々に通訳を伴ったアドメニア合衆国の軍人が訪れて、ある指示を行っていた。


 <2月末までに、敷地内の寮に入るように。工事が終了するまでは、誰とも面会は出来ないこと。工事終了までの生活の面倒は、全て、アドメニア合衆国軍が保障する。もちろん、給料も支給する。>


 とまどい不安になりながらも、指示に従うしか方法がなかった。他に生活する術がなくなっているのであるから。土地を売った農民のほとんどが、わずかな着替えを風呂敷に包み、妻や子に別れを言って、その鉄条網の中に入っていった。
 一方、五島藩主・盛利のもとには、三井楽はもとより、藩内の全ての地区から不安と戸惑いの声が寄せられていた。
 何が始まるのか、そう問われても誰一人答えることが出来なかった。ただ、何かの敷地造成で、皆には迷惑は掛けないと繰り返すのみであった。不安になっているのは、領民達のみでなく、盛利自身が一番不安に怯えているのであった。それは、他でもない先日ブログに書き込みがあったように外国人が乗り込んで来たからである。

 「盛次、しばらくは三井楽に滞在し、事情を調べ、事の成り行きを見極めてはもらえぬか。」
 「父上。調べるのは結構でござりますが、外国の方々は協力してくれるのでござりましょうか。」
 「うむ。長崎奉行の役人も同道しておると聞いておるゆえ、その方々を通じて話しを伺えばよろしいのではないかのー。」


 盛利の指示で三井楽に向かった盛次であるが、長崎奉行所の役人を通してアドメニア合衆国の軍人と接触はしたものの、工事の具体的内容はついに聞きだすことは出来なかった。仕方なく三井楽で様子を見守るしかない盛次であった。
 3月に入ると三井楽の白良ヶ浜(しららがはま)に、途轍もなく大きな船が入り、その船の舳先からは、次々に大きな鉄の塊の車が下りてきた。その車が通った後は、まるで最初から何もなかったかのように、白々とした土がむき出しになるのであった。
 それらの車は、鉄条網で囲われた敷地の大きな倉庫に入り込んでいった。
 その次の日から、早くも工事が始まった。
 鉄条網の中の畑という畑を、あの鉄の塊のような車で押しなべて行くのである。畑の麦も畑の周りの椿の木も残らず踏み潰し、ただ平らにする作業が始まったのである。



14、現実は、約定書には


 三井楽でのアドメニア合衆国軍による敷地造成の作業が始まって1ヶ月もしないうちに、五島藩には大きな問題が持ち込まれた。
 それは、雨の日になると、敷地造成を行っている所からの泥水で、海が濁り、数日は漁が出来ないというのである。
 その状況については、盛次も把握していた。
 三井楽の海一面が、陸地から流れ込む泥水で、赤く濁ってしまうのであった。
 やがて、その被害は三井楽沖にある赤瀬漁場の大敷網の水揚げにまで及ぶようになってきた。赤瀬漁場は、ブリの漁場として東洋一と言われる大規模な漁場である。その漁場の水揚げが最近になり極端に落ち込んできたのである。
 漁民や網主達は、藩主に救済を求めた。


 「わかった。この実情を幕府に伝え、救済してもらうことにしようではないか。」


 やがて届いた幕府の回答は、冷たいものであった。


 <そちらの問題であるので、自力で解決されるように。解決され次第報告されよ。>


 ふたたび、藩内が大騒ぎとなったのは言うまでもない。