江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

遣唐使ゆかりの五島市玉之浦町・白鳥神社

遣唐使も安全祈願に参拝した由緒ある神社です。







神社は、集落と入り江を挟んだ向こう岸にあります。奥に2本の幟が見えますか?


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神輿は、階段を下りてきて、船に乗せられ集落に渡ります。これを「おくだり」と言います。9月下旬、三日間の日程で祭りが行われますが、中一日は、仮宮で過ごします。お祭りが終わると逆に、船で帰り階段を上り社殿に神輿を納めます。これを「おのぼり」と言います。









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文武2年(698年)創祀。
延暦23年(804年)第16次遣唐使の第2船(最澄が乗船)が暴風を避けて玉之浦に停泊。その際、白鳥宮に参拝し安全を祈願。帰朝の弘仁年中に自作の十一面観音像を御神体として安置。(五島編年史より)
※ちなみに、この時の第1船には、空海が乗船しており、後年、帰国にあたっては同じ玉之浦町大宝の浜に漂着している。また、宝亀8年(777年)の遣唐使も出発・帰着は「橘浦」となっており、白鳥神社を参拝した事を推測させるものです。(シカリ注)







白鳥神社は、なんのために造られたのでしょうか?実は、この背景には、当時の東アジアの政治状況があったのです。






白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)
663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた。倭国(日本)・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の、海と陸の会戦のことである。






この戦いを機に、遣唐使のルートは、南路を取るようになります。なお、正確にはこの後も2回ほど北路を取っているが、これは「遣唐使」というより「送使」なのです。つまり唐や百済からのお客さんを送る使いだったのです。ちなみに、九州西岸には、この時期、多くの神社が造られています。特に、この白鳥神社は集落にではなく、海に面して造られているところに何か、特別な意味を感じます。









なんで、馬がいるんだ?!






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「文武2年(698年)6月28日、馬を諸神社に奉った。雨乞いのためである。」(「続日本紀」より)








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この写真の右手の対岸に「橘浦」という字名が残っています。つまり、この沖に停泊し、小船でこの神社に参拝したのでしょう。なんと、夢のある所なんでしょう。













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