江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

「自然」という言語認識の定着過程についての一考察(上)

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これから、三回にわたってとても退屈な文章をアップします。



まあ、時間のある人は読んでくださいな。





「自然」という言語認識の定着過程についての一考察(上)


1, はじめに
 
1999年の秋のことだった。
いつものように、何を見るでもなくテレビを見ていた私は、これまでに味わったことのない不思議な感覚に襲われた。
アマゾンの奥地をレポートする番組の中で、メイナク族の酋長が「ここには『自然』という言葉はなかった。最近、西洋人が入ってきて教えられた。それに『幸せ』という言葉もなかった。幸せは、ここではみんなが賑やかとか、みんなが穏やかということだろう。」というコメントをしていた。
「自然」という言葉がない、と言うことは一体どういうことだろうか。私は自らが日常的に使用している「自然」という言葉が存在しない事態を理解できなかった。
彼等は自然をどのように認識し、いや、周りのものをどのように認識し、自らとの関係をどのように理解しているのだろうか。
こうした疑問は、彼等の生活を考えるのみでなく、むしろ自らが日常的に使っている言語に少なからず疑問を抱かせ、そうした言語の繋がりで成立している私たちの社会に対する疑念を抱かせる結果となった。
 
「幸せ」とは、みんなが賑やかであり、みんなが穏やかなこと。
「幸せ」と言う言葉について、私は主に個人のこととして理解していた。それこそ経済的に恵まれ、不安なことが無く、楽しい生活を送れるような状態にある個人が自らを「幸せ」と認識し、そのような状態の人のことを「幸せな人」と表現するものと理解していた。
また一方で、「みんなが賑やかであり、みんなが穏やかなこと」というメイナク族の「幸せ」に対する認識について、理解できないことはない。
自分ひとりではなく、周囲との関係の中で幸せな状態が自分にもたらされる。「幸せ」についてそのような認識を持っている人は、現在の日本でも、数多くいるだろう。
だが、「自然」という言葉がないという状況については、どうしても理解できないことであった。しかし、現在の私にとっては、メイナク族の社会に「自然」と言う言葉がないことについて調べようにも、何も材料がなく確認のしようのないことである。
そこで私は、現在私たちが使っている言葉が、どのように私たちにもたらされたものなのかを考えることで、「自然」と言う言葉と私たちのかかわりについて少しでも理解できないものかと考えたのである。
果たして、この作業はどのような結果になるものか。そのことに、どれほどの意義があることなのか。
すべてが分からないことばかりではあったが、「自然」という言葉が存在しない状況を意識することに対する一種の不安みたいなものには替え難いもののように思えた。
 
 
2,「自然」の意味について
 
今日、日本で「自然」と言うときは、一般的に「山、川、海、動物」など自分自身を取り巻く環境を総称的に表現するとき、あるいは、加工されていないそうした環境を表現するときに用いられている。
かなり古いが、手元にある角川国語辞典(昭和36年出版)で「自然」の項目を調べると次のように定義している。
<名詞>
①天然のままの状態。
②人間の力を加えない、物事そのままの状態。
③狭義では、山川草木。広義では、外界に実在するいっさいの現象。
④人類以外に存する外界。
⑤造化の作用。
⑥本性。天性。
この辞書における「自然」の定義からすると、私の「自然」と言う言葉に対する認識は間違いではなかったと言える。
しかし、「造化」とか「本性」という定義を見たとき、「自然」という言葉の成り立ちの裏には、私たちの一般的認識以外に何かがあるのだとはじめて認識した。そこで、由来を知るために古語辞典(旺文社・1990年版)で調べると次のように定義されてあった。
<名詞>
①人の手の入らぬままであること。
②万一。
この辞典での「自然」の定義は、明らかに私の認識する「自然」ではないといえる。
例えば、「大事な自然を守ろう」という文章の「自然」の代わりに「人の手の入らぬままであること。」とか「万一」という解釈を代入して会話が成り立つだろうか。
「人の手の入らぬままであること。」という解釈を「人の手の入らない状態」として代入した場合には、会話が成り立たないことはない。だが、私達が一般に「自然」というところには、多くの場合には人の手が入っており、人が住みやすくするために少なからず「開発」されている。次に、「万一」という解釈を代入すると、まったく理解できない文章となってしまう。
このようなことから推測すると、「自然」についての古語辞典における定義では、現代社会を生きる私達が利用する言語としては意義を有しない。
つまり、過去の「自然」の意義と現在使用されている「自然」の意義が変わっているということであり、同時に、いつかの時点において意義を変えるような事があり、私達日本人はそれを受け入れたという経緯があったのである。
 
 
3、 そもそも「自然」という文字は何処から来たのか
 
意義は違っても古語辞典に「自然」という文字が記載されているということは、この文字の生成はそれなりに古い歴史を有することなのだろう。
日本文化の根底には、漢字の移入と同様、中国の文化が色濃くその痕跡を残している。このような事実に基づき推測するならば、漢字あるいは仏教とともに日本に移入されたものではないかという推測もありうるだろう。
手がかりを求めて大漢和辞典(大修館書店)により「自然」を調べてみると、次のような説明の他に六項目の語義の解説が記載されている。
 
○人為の加はらない義。天然。本来のまま。おのづから。
  
老子〕 人法 地、地法 天、天法 道、道法 自然。
            ゝ     ゝ    ゝ    二   一
 
ここでは、他でもない極めて哲学的意義を持っている。<人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。>
角川古語大辞典(昭和62年出版)においては、「漢語。中世以前は、おのずからそうある意の場合は『じねん』を用いた。」とある。
つまり、漢語「自然・じねん」として移入された「自然」は、哲学的意味合いで使用され、時代の変遷の中で「しぜん」と発音されるようになってきたのである。
しかし、哲学的意味合いの強い言葉を、一般の人々が多く使うとは考えにくい。さらに、今日使われる「nature」の訳語としての「自然」とはほど遠く、ここには、それこそ自然に「じねん」が「しぜん」になったと考えるのではなく、何らかの試行錯誤を伴う人々の努力があったと見るべきであろう。
再び、辞典をたよりに手がかりを求めていると、辞林21(三省堂)に次のような気になる熟語が載せられていた。

しぜんがく【自然学】    ギリシア哲学において、自然を扱う学問部門。
しばしば論理学・倫理学とともに哲学の三部門を成す。
しぜんしゅぎ【自然主義
―①などは省略―
②19世紀後半におこった文芸思潮。観察を標榜する近代のリアリズム(写実主義)の延長上に、これを科学的に徹底し、理想化を排し人間の生の醜悪・瑣末な相までをも描出する。フランスのゾラ・モーパッサンなどが代表的。この影響のもとに、日本では明治後期に島崎藤村田山花袋などが輩出した。
しぜんとじんせい【自然と人生】
随筆・小品集。徳富蘆花作。1900年(明治33)刊。短編小説・評伝・随筆・散文詩を収録。万物に神を見る汎神論的自然観がうかがえる。

これらの記述からすると、明治期に中国とは別ルートから、「自然」に関する何らかの解釈の移入が行われたとも推測できる。
それにしても、相変わらず堅苦しい言葉としてしか使われていないようである。今日、皆さんが使うような、「五島は、自然がいっぱいですね。」などという使い方、つまり「自然=nature=山野河海」という理解の仕方は、いつの時点で日本人に定着したのだろうか。
 
 
4,「明治」という転換点
 
聖徳太子が遣隋使を派遣して以来、大陸の文化の吸収に努めてきた日本は、江戸時代に入り、その成熟期を迎えたと言われています。しかし、皮肉なことに、求めた広い世界から押し寄せたグローバル化の波は、それまで築きあげてきた文化を、日本人自らの手で破壊するという副作用をもたらす結果となった。日本文化の有意性を認識していなかった当時の若者たちは、「文明開化」「西洋に追いつき追い越せ」を旗印に、それまでのあらゆる制度・生活様式を改めることに狂奔したのである。
新しいものは全て吸収し、古いものは根底から解体し尽くす。このような時勢の中で、文学の社会でも新しい動きが出ている。
小西甚一著『日本文学史』(講談社学術文庫)によると、「明治二十六年ごろから、正岡子規を中心として、俳句および和歌の革新運動がおこった。…中略…小説のほうでは、明治三十年後半から、写実的思潮が胎動していたが、日露戦争後、島崎藤村の『破戒』が自然主義の出発を告げ、田山花袋の『蒲団』(明治四十年「新小説」所載)にいたって、それが確立された。」とある。
もちろん、このような何でも新しいものを取り入れようという世相の中にあっても、冷静に移入文化と日本文化を比較し、古来の文化を大事にする人たちもいた。
その一人が、森鴎外であった。
鴎外は、明治維新に先立つ文久2年(1862年)に 島根県津和野町 の当時の津和野藩御典医の長男として生まれ、東京大学医学部を卒業し、23歳の時には陸軍の官費留学生としてドイツに留学している。
明治21年、27歳で帰朝した鴎外は陸軍軍医学舎(のちの軍医学校)と陸軍大学校の教官を務める一方、西洋文化の紹介と日本文化との調和にも努めている。
日本文学全集(筑摩書房)の「人と文学」において、唐木順三は鴎外のことを次のように書いている。
<……鴎外が西洋からおしよせて来た近代的なもの、合理的文明と、日本古来の伝統的なものとを調和させようとした人であった……>
<……明治に育った人のもつ背骨とでもいうべきもの、古今東西の学を踏まえて、その上に、なにものかをうみいだそうとする意志があった……>
<……西欧の新文学思想が紹介され、西洋小説の模倣が出て来たが、それもまた無能無学の徒の仕業に任せられていて、西洋文学の本質を理解するには至っていないと鴎外はいう。……>
 
ところで、この時期の風潮について、鴎外自身、当時自らが政府の各種委員を務めた時の模様を、次のように紹介している。(前出文学全集・「妄想」より)
 
<ある委員「家の軒の高さを一定にして、整然たる外観の美を成さう」
   自   分「そんな兵隊の並んだやうな町は美しくは無い、強ひて西洋風にしたいなら、寧ろ反対に軒の高さどころか、あらゆる建築の様式を一軒づつ別にさせて、エネチアの町のやうに参差錯落たる美観を造るやうにでも心掛けたら好かろう」>
<食物改良議論
「米を食ふことを廃めて、沢山牛肉を食はせたい」
   自  分 「米も魚もひどく消化の好いものだから、日本人の食物は昔のままが好かろう……」>
<……正直に試験して見れば、何千年といふ間満足に発展して来た日本人が、そんなに反理性的生活をしていよう筈はない。……>
 
舞姫」「於母影」などで有名な鴎外ではあるが、アンデルセンの「即興詩人」、ツルゲーネフの「馬鹿な男」、トルストイの「瑞西館に歌を聴く」などの翻訳でも西洋の文化の紹介に努めている。
しかし、その鴎外にして、その心の深いところでは、自らの育った日本の文化への絶大な信頼と自信があったのである。
「妄想」は、明治44年3月から4月に発表されたものだから、この頃にはすでに多くの外来語の紹介と言語定義は確立されていたと思われる。
そうした言語認識の定着と「自然=nature」という概念の定着にどのような人々が関わったのかについて考察するには、さらなる検証が必要である。
 
 
5,誰が最初に「しぜん」と言ったのか
 
『明治のことば辞典』(東京堂出版)には、明治の新語として次のような熟語を紹介し、その出典と解説を記載している。
しぜんかがく【自然科学】
◯〔普通術語辞彙・明38〕〔新訳和英辞典・明42〕〔辞林・明44〕〔模範英和辞典・明44〕〔哲学字彙<三版>・明45〕〔大辞典・明45〕〔新式辞典・大1〕〔大増補模範英和辞典・大5〕
◯明治時代の新語。英語natural scienceの訳語。森鴎外の『妄想』(明治44)には「自然科学のうちで最も自然科学らしい医学をしてゐて、」とある。
しぜんげんしょう【自然現象】
◯〔哲学字彙<三版>・明45〕
◯明治時代の新語。森鴎外の『灰燼』(明治44年~大正1)三には「小さな指のしなやかな、弾力のある運動に、或る自然現象に対すると同じやうな、・・・」とある。
しぜんしゅぎ【自然主義
              ◯〔日本大辞典・明29〕〔ことばの泉・明31〕〔普通術語辞彙・明38〕〔新訳和英辞典・明42〕〔日本類語大辞典・明42〕〔辞林・明44〕〔模範英和辞典・明44〕〔大辞典・明45〕〔美術辞典・大3〕
◯明治の新語。英語naturalismの訳語。二葉亭四迷の『平凡』(明治40)二には「近頃は自然主義とか云つて、…・」とある。
しぜんとうた【自然淘汰
◯〔哲学字彙・明14〕〔独逸医学辞典・明19〕〔和英語林集成<三版>・明治19〕[漢英対照いろは辞典・明治21〕〔日本大辞典・明26〕〔和英大辞典・明29〕〔ことばの泉・明31〕〔和仏大辞典・明37〕〔辞林・明44〕〔大辞典・明45〕〔新式辞典・大1〕〔博物学事典・大1〕
◯明治の新語。英語natural selectionの訳語。坪内逍遙の『小説神髄』小説の変遷(明18)には、「是しかしながら優勝劣敗自然淘汰のしからしむる所」とある。「淘汰」は「陶汰」(たとえば『哲学字彙』明治14)と表記したものがある。
 
これらの中では、明治14年の『哲学字彙』に記載された「自然陶汰」が最も古い記述と見られる。
この『哲学字彙』の生誕のいきさつについて、先出の『明治事物起原』では次のように紹介している。
【哲学攻究の始め】
哲学は、最初英米より入り来り、英米の独逸流に感染せるとともに、十三・四年より、独逸流に向かひ、続きて、二十年よりは、まつたく独逸に限るごとき変遷を経たりき。十四年一月、井上哲次郎和田垣謙三国府寺新作・有賀長雄共著の『哲学字彙』小一冊成れり。……
 
つまり、この井上哲次郎らによる『哲学字彙』において初めて、「じねん」と読まれていた「自然」という漢字に、「しぜん」という読みがつけられたのである。
さらに、西洋の熟語として『哲学字彙』に紹介された「自然 ( ・ )汰」は、やがて坪内逍遙により「自然 ( ・ )汰」として明治18年に日本に紹介され、「しぜん」という読みの定着に一つの流れが出来たものと推測できる。(つづく)





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