江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

ラジオの「宗教の時間」、聴いたことがありますか?








早朝のラジオから流れて来る、教え。





どのような内容だったか全く覚えていません。ただ、とても心が穏やかになったことは覚えています。





その日、その時に、そのような番組があるとも知らず、ただ、眠れないひと時をラジオで時間をつぶそう、って程度で数回聴いたことがあります。







ラジオの「宗教の時間」どこへ 撤退と拡大、宗派で違い


朝日新聞デジタル 923()1823分配信


 ラジオから戦後64年流れ続けた「お坊さんの教え」が今月下旬で終わる。真宗大谷派京都市下京区)の朝のラジオ番組「東本願寺の時間」。リスナーの多くは高齢者だが、世間のラジオ離れにあらがえなかったという。一方、信徒獲得へ放送網を広げ、若者向けにインターネット配信に力を入れる宗派もある。

 8月下旬、京都市内のラジオ収録スタジオ。真宗大谷派の里雄康意(さとおこうい)・宗務総長(66)が法衣姿でマイクの前に座り、番組の歴史や収録の思い出を語った。「長い間よくぞ続いてくれたという感慨深い思いと、一抹の寂しさを感じます」

 番組は1951年11月、朝日放送大阪市)の開局時に「布教の一環」で始まった。今ではニッポン放送(東京)など全国13局で週1回、午前4~7時台に約10分間流れる。「朝一番、新鮮な気持ちで仏法に触れていただいた」。大谷派の三島多聞(たもん)参務(71)は振り返る。

 放送回数は約3400回。61年は宗祖・親鸞の700回忌法要を実況中継。87年には、親鸞の生涯を描いた映画を監督した俳優の故・三國連太郎さんが出演。98年は中興の祖・蓮如の500回忌にあわせ、多くの僧侶が法話を披露した。好評だった仏教に関する童話コーナーは2001年にCDで発売された。

 聴取率は開始当初6%。だがラジオ離れが進み、近年大きく落ち込んだ。年間千数百万円かかる制作費の負担も重く、幕を下ろすことに。最後の放送は朝日放送が24日午前4時50分から、KBS京都が25日午前5時からの予定だ。

 リスナーの多くはシルバー世代。20年来、熱心に聴いてきた富山市の島田高志さん(76)は「いろんな寺の住職の体験談を踏まえた法話が聴きやすかった。毎日の生活の心の糧でした。終わってしまうのは本当に残念です」と惜しむ。

 大谷派は「これからは若い世代に伝わる方法を」と、10月からポータルサイト浄土真宗ドットインフォ」(http://jodo-shinshu.info/)で法話の動画配信を始めるという。

 「宗教の時間」。宗教団体のラジオ番組は業界でそう呼ばれ、全国で少なくとも数十の放送がある。

 今年1月には、半世紀以上続いたPL教団(大阪府富田林市)の番組「PL教団の時間」も終了した。教団担当者も「より時代にマッチした方法を模索することにした」と話す。

 一方、浄土真宗本願寺派西本願寺京都市下京区)は、60年以上続く番組「みほとけとともに 西本願寺の時間」を昨夏、全面リニューアル。僧侶らが1人で話すスタイルを改め、住職の妻でプロのジャズ歌手でもあるパーソナリティーがゲストと対談する方式に変えた。担当者は「一般のリスナーがより親しみやすいようにした」。

 積極的に動くのは浄土宗(京都市東山区)。番組「法然さまの時間」の放送局を昨春9局から28局に、今春から36局に増やした。「自分の住む地域でも聴きたいという要望に応えた」と担当者。高齢の人にとって、ラジオはまだまだ大切な情報手段とみる。

 宗教学者島田裕巳さんは「ラジオの説法はかつて大きな影響力を持っていたが、ネットの求心力がどんどん高まってきた。でも、肉声で語られる教えには温かみや説得力がある。これからも形を変えながら続いていってほしい」と話す。(佐藤剛志)


最終更新:923()2216

 



熱心な視聴者でもないシカリさんですが、あの穏やかな語りの教えの時間が無くなることは残念でなりません。





もちろん、宗派としての経営上の判断ですから、「残念」以上のことは言えませんが。





「進化する」という言葉があります。ダーウィンとウォーレスによって提起された生物変化の形態に対する一つの概念ですが、現在では、あらゆる分野で「進化した」「進化する」などの形で使用されている言葉。(シカリさんは、今西錦司の進化論を支持する立場です。100%ではありませんが・・・)





その延長での使い方で、「人間社会は進化しているのか」などの使い方もしています。




人間は、様々な道具を使い社会システムを構築し、広範囲の情報を管理し、なんだか、とても進化した生物のように見えます。




しかし、残念なことに、それほど他の生物に比べて進化したとは言えません。生物の基本的存在活動は何だろう。




食べる。生きるために食べる。食べるための狩りであったり生産。生きるシステムを守るための集団活動。子孫を残すための生殖。集団を守るための防御活動。




こうした活動の多くは、他の生物でもやっていること。人間の場合、なんか、色んな機械を使ったり、道具を使ったり、建物を作ったり、そんなものを見ていると、つい、人間はあらゆる生物の頂点に立っている、と思いがちです。




アリは、広大な地下帝国を築いています。実に、芸術的ともいえるようなネットワークを構築し、それぞれの任務分担もきっちりされ、種類によってはキノコの栽培をするアリもいます。ゴミもきちんと決められたところに捨てます。基本的活動と言う点では、それほど人間と変わりません。




人間とこうした生物の違いはあるのでしょうか。シカリさんは、こう思います。「人間は与えられたエリアを超えてしまう」残念な生き物だ、と。よく言われるのが、欲望をコントロールできないということ。たちが悪いのは、現世代だけでなく、次世代のエリアすら侵略してしまうほど、人間の欲望は肥大化してしまっている、ということ。ある意味、現代のワシらの生活は次世代の資産を食いつぶして豊かさを享受していると言えないでしょうか。(具体的に書きだすときりがないので省略します)




こうした欲望をコントロールしようと人間が考え出したのが宗教であり、哲学ではないでしょうか。




忙しくてそんなこと考える暇もないよ。確かに。でも、誰しも、自らを振り返るときは必ずあったはず。これからもあるはず。




宗教には色んな宗派があり、時として、それが紛争の火種にもなったりします。長崎市の宗教者たちは、お互いの行事に参加したり意見交換会をしたりして、宗派を超えて平和を追求しようという活動を行っています。




宗教と哲学の戦いもあったりします。でも、それらの存在意義は、人間の幸福の追求のはず。ならば、お互いの違いを認め合える心を持つことが出来れば、手段の違いを受け入れることも出来るはず。



見えない敵を作り出して、戦うことを考えてばかりいる妄想家たちより、平和と幸福を追求する存在として、アリに負けない存在でありたい。





ラジオの「宗教の時間」と言う番組を一つのきっかけとして、現在の自分を振り返る時間をいただきました。ありがとうございました。




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