幸福について
五島市・堂崎海岸にて
皆さ~ん、「幸福ですか?」って聞かれて、なんて答えます? 「うん。まあまあ、幸せ、なんじゃない?」、「資産もあるし、子供達も立派に育っているから、幸せ。」、「何とか生活できているし、病気もしないから、幸せだよ。」って答える? あるいは、「これまで楽な生活したことないから、幸せじゃないよ。」、「子供が大学に入学したと思ったら、お父さんが病気したので幸せじゃないよ。」、「経済的には、ゆとりのある生活しているけど、周りの人との関係が旨くいかないから幸せじゃないよ。」って答える? あ、それから、「そんなこと考えたことないよ。」って答えるか。 色んなパターンが、あるんだろうね。 ワシが、今、こんなことを自分のこととして考えたわけじゃないんですよ。(自分で問題提起して、なんだ!って、叱られそうですね。) 確かに、昔、考えたことはあるんですよ。(ホント)でも、最近では、そんな抽象的なことじゃなく、もっと具体的で、すぐ解決しないといけないような問題が山積みで、「ワシ、幸せなんだろうか。」なんて考えたこと、ないんです。 じゃあ、なぜ今さらこんな事を書いているの? 他でもない、ブログのネタ・メモに書いていたのが目に付いて、なんとなく「解決しないと」と考えたのがきっかけで~~す。(ごめんなさ~~い。) しかし、そもそも「幸福、幸せ」というもの、どんなもんか、自分でも分けワカランわけよ。 ついには、広辞苑(第五版)まで引っ張り出して調べるわけよ。 「幸福」については、「心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ。」って書いているんだよね。 じゃあ、「しあわせ」って何? 同じ広辞苑で調べると、『【仕合せ】③(「幸せ」とも書く)幸福。好運。さいわい。また、運が向くこと。』なんて書かれているんよ。 え?「好運」? 面倒くさいけど広辞苑では、「よい運。よいまわりあわせ。しあわせ。」って書いているわけ。 じゃあ、「さいわい」は? 「運がよく、恵まれた状態にあること。しあわせ。幸福。好運。」なんて書かれているさぁあ。(ちょっと、沖縄なまりで) さっき、「しあわせ」は「仕合せ」の項目の三番目に書かれていたんだけど、一番・二番目には「めぐりあわせ、機会、天運、なりゆき、始末」なんてことも書かれているわけ。 こっちを調べれば、あっちを示し、あっちを調べれば、こっちを示し、で、どうなんだろう? 結局、運が良くないといけないわけ? 努力しても、無駄? みんな、どー思う? とっても大事な言葉なのに、「書いていること、少ないなー」って、思いません? それで、ワシ、もともと日本人って、「しあわせ」なんて、そんなに気にしていなかったんじゃないか、って思ったんよ。 そこで思い出したのが、数年前見たアマゾンの奥地をレポートするテレビ番組の中で、そこのメイナク族という部族の酋長が「ここには『自然』という言葉はなかった。最近、西洋人が入ってきて教えられた。それに『幸せ』という言葉もなかった。幸せは、ここではみんなが賑やかとか、みんなが穏やかということだろう。」(拙著「二十一世紀の赤坊達よ」より)というコメント。 ね? 別に、「幸せ」なんて考えなくても、生きていくのに支障はないんだよ。 でも、このメイナク族の酋長の言葉「みんなが賑やかとか、みんなが穏やか」という説明は、なんとなく納得できません? ワシはね、すっごく納得したね~。 自分だけのことでなく、みんなが賑やか、みんなが穏やかな状態が、自分の心を穏やかにする、ってことだろう? それで、みんなって、今、生きているみんなだけでなく、これから生まれてくる子供達のことも大事なんだよね。 ねえ、みんな。 物が豊かでなくても、誰かより地位が上でなくても、他の家庭より美味しいものが食べられなくても、そんなことじゃなくて、みんながワイワイしていれば良いんだよ。 このブログみたいに、みんながワイワイしていれば良いんだよ。 理解できないことも、納得できないことも、みんなで体当たりして解決すれば良いんだよ。 一人だけ置いてきぼりじゃなく、一人だけ「幸せ」じゃなく、みんなでワイワイできる社会が良いってことなんだ。 で、結局、解決したの?