江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

福江大火から50年

台風16号の来襲の際は、大変、ご心配をおかけしました。被害としては、家屋の倒壊(不在者の家屋)や停電などがあったようです。農林水産業にも少なからず被害があったものと思いますが、状況がわかりません。我が家は、幸い被害もなく平穏に過ごしております。もう、今年は台風はいらんばい。出来たら、来年も・・・










毎度、退屈な記事のアップで申し訳ありません。先日(15日)付け、長崎新聞うず潮」欄に掲載されましたワシの文章の原文をアップします。ヒマがありましたら、読んでください。












福江大火から50年 
                       

 あれは私が小学5年の秋のこと。前後は覚えていないが、あたりはまだ薄暗い早朝、中須川に架かる橋の上で、北東の山越しに昇る赤い炎を大人たちと眺めていました。それは、子供ながら大変な事態であることが理解でき、知らず知らずに体が震えていました。

 福江大火が発生したのは、昭和37年9月26日午前2時頃のこと。住宅604戸が全半焼し、811世帯3936人が被災したのです。当時は常備消防もなく、旧福江市消防団735人と近隣町消防団810人による消火活動でした。懸命の消火活動により、6時間後の午前8時10分鎮火。このように大規模な、しかも深夜の火災にもかかわらず死者が出なかったことは幸いでした。

 古い言葉ですが、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉を聞いたことがあると思います。それほど火事が多かった江戸。1657年の「明暦の大火」後、防火用空地の「広小路」を配置し、道路幅も広くし、大規模な区画整理を行いました。この町割りを機に「お江戸八百八町」と呼ばれるようになりました。さらに、「木場」を配置し、火災が発生してもすぐに復旧できるように材木を備蓄する仕組みも作っています。
 また、「なます講」というボランティア組織もあり、大災害時には人命救助・炊き出しなどを行ないました。つまり、江戸にはハード・ソフト両面で災害への備えが出来ていたのです。

 私たちは、科学技術の進歩とともに、「災害は防げる」という考えを持つようになりました。しかし、昨年の東日本大震災は、そのような私たちの姿勢を厳しく問うもので、高度な装備は能力を発揮できず、情報網は寸断され、最後に頼りになったのは人と人の繋がりでした。
 振り返って、福江大火の際、一人の死者も出さなかったことは、隣近所の声掛け、助け合いがあったことの確証でしょう。50年という節目に、災害を怖れる心を共有し、助け合う地域づくりについて考えたいものです。













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五島市のHPより)











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