大都会の谷間に消えた高齢者たち・・・ |
毎日、新聞のどこかに『高齢者行方不明』の記事が載っています。
なぜか、100歳以上がクローズアップされていますけど、それだけの問題でしょうか。
年金の不正受給があるから注目されているのでしょうか。
高齢者が行方不明って、どんなことなんだろうか。
イ、高齢者が死んだけど、葬儀もしてもらえない。
ロ、若い頃から行方不明だったけど、今、注目されている。
ハ、若い頃に死んでいたけど、葬儀もしてもらえず、今、注目されている。
ニ、実は、どこかで生きているけど、何らかの事情で表に出て来れない。
ホ、どこかで偽名で生活していたけど、すでに亡くなっている。
ヘ、どこかで偽名で生活している。しかも、若い人と同棲していたり・・・(そんなこと、あるか!)
ト、どこかで本名で生活していたけど、すでに亡くなっている。
チ、どこかで本名で生活している。
リ、・・・・・・・・・・・キリが無い。^^;
行方不明は、珍しいことではないですよね。
昔は、「神隠し」「鬼にさらわれた」なんぞという言葉もあったことだし・・・・
最近も、こんな話しを聞いたことがあります。
<ある老人の話より> 高度経済成長期に「貴重な労働力」として都会に出て行った。希望を持って仕事に励み、家族を作り、家族のために一生懸命働き数年前、定年を迎えた。 子供達も独り立ちし、悠々自適の老後のはずが、妻が寝たきりになったことから、生活は一変した。3年ほど、寝たきりの妻の看病をしたが、妻は亡くなってしまった。 わずかな貯金も底を突き、何ヶ月かは子供達からの援助もあったが、それ以上、子供達には親の生活を助けるゆとりはなかった。 結局、一人故郷に帰省した。帰省したとしても、寄る辺もない身。わずかな手持ち金をポケットに、福祉の職場を訪れた。
この後、この老人は生活保護を受けるようになったということです。
子供達の足手まといになりたくない、という思いがあったのでしょうね。
田舎者のワシらにとって、大都会・東京と言えば『東京タワー』、プロ野球と言えば『巨人』しか知らない時代に、この爺さんは五島を出て行き、一生懸命、働いたんでしょうね。
高齢者の行方不明の問題は、多くの識者の皆さんが杞憂するように日本社会の根幹に関わる問題だと思うんです。(エヘン!)
素人なりに分類してみると、①家族などとの関係を自ら断ち切った人(出る人)、②死んでいるにもかかわらず「葬送」してもらえない人(このことは、逆に「葬送しない、見送らない人」の問題でしょう。)、③戸籍・住民基本台帳の問題、てなことにならないでしょうか。
戸籍や住民登録の問題は、法制度や管理体制を検討することで、いくらか解決策は見えてくるのかもしれませんね。
でも、「出る人」「見送らない人」の問題は、原因も解決の方策も、な~かなかわからないような気がするんです。
マスコミなどでは「無縁化社会」「地域社会の希薄化」なんぞと表現していますね。
『なるほど旨い表現だ』と思うんだけど、『それだけ?』って気になるんです。
『なるほど旨い表現だ』と思うんだけど、『それだけ?』って気になるんです。
「出る人」問題は、昔からあったことだろうけど、「見送らない人」の問題こそ、現代特有の問題ではないでしょうか。(思い込みですけど)
亡くなった者を弔う行為は、社会生活を営むうえで「繋がりを維持する」という思いがあるのではないでしょうか。一人の人の死を通して、「家族」「親族」の歴史や思い出を振り返り、お互いの存在意義を確かめ合う。「葬式」と言う儀式には、そのような意味があると思います。(ウ、ウ、ウ、硬い・・・)
「見送らない人」に象徴されるのは、「家族」は先祖から受け継がれ子孫に引き継ぐべきものという認識、次の世代の「家族」を育てるという意識が失われているような気がします。
それは、個人レベルだけでなく、税制上の扶養控除制度の廃止に見られるように、国自体も「家族」の存在意義を見失っているように思えます。(もっと、硬い・・・・^^;)
『現在の生活さえ保障されれば、後は、どうでも良い。』って考え?
違うかな~~。
「家族」という仕組みを大事にしましょうね。 |