江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

秋葉原事件の絶望・・・

ただ、偶然そこに居ただけ、なのに・・・

 8日、秋葉原で起きた事件は、形容のしようがない。
 7名の方が亡くなり、10人の方々が重軽傷を負った。一体、なぜ?理解できない事ばかり。
 ただ、なくなられた方々のご冥福をお祈りし、傷を負った方々が一日も早く回復することと、ご家族の皆様の心の傷が、一日も早く癒されます事をお祈りします。
 そうは言っても、亡くなられた方々のご家族の心の傷が癒されることはないだろう。
 一生、空洞のような心を自らのものとして受け止めることが出来ず、苦しむのだろう。なんと言うことだろう。

 これだけの悲劇を起こした25歳の男は、そこに至る過程で、自らの行動をどのように肯定したのだろうか。
 自らの『悲劇?』を、なぜ関係もない人々に向ける必要があったのだろうか?
 どのような悲劇があったのか。
 自らの生い立ちあるいは能力と自らの現状と行く末の乖離か。受け入れられない現実に絶望したとしても、なぜ、他者を「殺す」という発想に至るのだろうか。

 自らの現状あるいはその将来に絶望した場合、一般的に現象として現れるのは「自殺」。しかし、25歳の男は、他者を抹殺することを選んだ。
 どうしても理解できない。

絶望しての行動なのか?

 他者を巻き込むほどの犯罪の場合、多くの事例が、犯人は色々と試行錯誤を行い、誰かにすがろうとして、それでも対策尽きて、他者の生活を犯し、あるいは命を奪うような犯罪にいたっている。
 そうした行為に至る過程では、悩みはその人の表情をゆがめ、引きつった表情で逮捕されるのが、過去の事例だ。

 しかし、最近の若い犯罪者達の逮捕されたときの表情は、そうではない。
 実に、クールな表情をしている。
 あるいは、達成感に満ちた満足げな表情を浮かべている時すらある。
 一体、なぜ?

 彼らは、悩んでいないのではないか。ただ、自分の思いと違う展開を受け入れることが出来ないことから、別の次元を作り出し、そこにジャンプすることで楽になろうとしているのではないか。

 皆さんは、覚えていますか?
 オウム真理教という集団が起こした事件を。
 彼らの犯罪こそ、そうしたジャンプ型犯罪であったと思っている。ジャンプと言う言葉を使うと、それこそ軽く感じられるので、使わない。
 もっと、的確な言葉は無いだろうか。
 問題すり替え型、逃亡型。

たちが悪い、自己中心的犯罪!

 今回の犯罪では、自分の行動を克明に携帯のサイトに流していたということが報道されている。
 つまり、悩んでなんかいないのだ。
 絶望もしていないのだ。
 ただ、受け入れることが出来ない現実を劇的に否定することで、自分のアイデンティティーを守ろうとしたのではないか。

 一部の報道では、「勝ち組はみんな死んでしまえ」とサイトに流していたとか。そんなことは、劇的に見せるための飾りでしかない。正当化するための、飾りでしかない。

 現代社会には、確かに歪みがある。
 そのために苦しんでいる人々が居ることは事実だ。
 しかし、そのことと25歳の男の行為は繋がらない。第一、これまで社会の歪みを是正するためのどんな努力をしてきたと言うのだろうか。
 もし、25歳の男の心に、少しでも「社会のあり方が原因だ」という気持ちがあったのなら、現実に社会が持つ様々な問題と、日々向かい合っている人々に対して、失礼な話しだ。

 社会の矛盾と戦うこともなく、「社会問題」を自らの幻想の道ズレにしようとすることは許されない。
 おそらく、25歳の男の近くに、社会の歪みと戦う人がいたにしても、この25歳の男は協力もしなかっただろうし、感心も払わなかっただろう。

 自らの幻想の中で行き続けることができないと理解した時点で、なおかつ、努力をしようとせず、「それでも俺は凄いんだ」と思い続けたい、たちの悪い子供なんだろう。自己中心的な人間だったのだろう。もっと、言うなら反社会的な人間なんだろう。

自分の子供だったら・・・

 今回の犯罪を聞いて、まず思ったのが、「自分の子供だったら・・・」ということだった。
 幸い、自分の子供ではなかった。
 被害者にしても、加害者にしても、その家族は辛い思いをする。まして、自分が今回の25歳の男の家族だったら。。。

 「たちの悪い子供」を育てたのが、自分だったら。
 考えただけで、ゾッとする。
 間違いなく、明日はない。でも、生きなければならない。生きて、どのように「たちの悪い子供」を育てたのか、検証しなければならない。

 何が原因で、このような自己中心的な、反社会的人間を育てたのか。
 もちろん、一家族の中だけで人格が形成されるわけではないので、全ての責任を押し付けられない。子供たちを取り巻く環境は複雑だ。
 子供達への社会的ストレスも、相当大きなものであることは事実だろう。
 しかし、目の前の問題と取り組めない子供を育てたことは、大きな問題だ。

 さらに、その様な子供達が量産されている現実も怖いし、そのような家族が再生産されているのかと思うと、絶望的にすらなる。
 問題は、ここで踏ん張るか、誰かのせいにして逃げ出すか。
 

ワシは、逃げない!だからブログで綴る。

 社会が、劇的に変わる事は、めったにない。(韓国では、今、劇的に変わっているが。。。)
 だから、少しでも発言し、行動するだけ。。。

 人間を、「社会的動物だ」と規定した人がいた。確かにそうだ。一匹狼のような獣ではない。自らの欲望をそのまま社会に晒す獣ではない。
 お互い少しずつ気を使い、頼りあい、協力し合い生きていく、弱い生き物だと思うのです。
 だから、弱い生き物は、それなりに子供に生きていくための知恵を授ける。生きる力をはぐくむための努力をする。もちろん、なにごとも完璧はない。
 でも、昔から子を思う親の思いは変わらない。子を思う親の努力は変わらない。
 これからも、変わって欲しくない。

 秋葉原事件の絶望は、被害者とその家族だけのものではない。
 この社会のものだ。

 全て、想像での展開でしたが、自分なりに消化したかったものですから、お許しください。