小田実氏死去。
75歳だったという。
1960年代の反戦運動の旗手。文筆家。
学生は、全学連。労働者は、労働組合。
そして、どこにも属さない一般の市民が参加した運動体が
「ベトナムに平和を!市民連合」いわゆる、「べ平連」。
組織のようで、組織でなかった、変な運動体。
当時の過激な学生達は、そのいい加減な運動体「べ平連」をなじった。
しかし、そこに集う人々は、それぞれの立場から精一杯のメッセージを
送っていたのである。
全学連の闘志も、労働組合の活動家も、70年安保のあとの燃え尽き
を引きずりながらも、自らの思想にこだわり続ける人々がいる。
それと同じように、あのいい加減なべ平連にかかわった人々の中にも
いまだに、当時の自分を振り返り、当時の自分の活動の意義にこだわる
人々がいる。
私は、高校生だった。長崎の地で、わずかな高校生達がべ平連の人々
の手助けで、独自のデモ隊を組織した。
そこに集ったのは、長崎・佐世保・川棚の高校生達十数名だった。
「4・28沖縄デー」のことだ。
ふと、当時のことを思い出した。
被爆地であると同時に、兵器生産の場でもある長崎。
当時の私達は、ベトナムの子供たちのことを考えると、兵器生産で
潤う長崎に、後ろめたい気持ちで一杯だった。
学生達のような理論も、労働者達のような日常の活動もなかった。
ただ、「ベトナムは、いやだ!」という気持ちで、話し合い、行動
することを決め、デモに参加した。
当時のマスコミは、私たちのことを「大学生が扮しているのだ。」と
報じた。
しかし、そこにいたのは紛れもなく高校生達だったのである。
普段は、部活をし、受験勉強をする高校生達だった。
なんの理論もない、ただの高校生達だった。
そのような私達に、表現の場を与えてくれたべ平連。
実に、奇妙な運動体だった。
あらためて、小田さんのご逝去を悼み、ご冥福をお祈りいたします。