日本国民必読の文書「陛下85歳誕生日、記者会見全文」
昨日、85歳の誕生日を迎えられた天皇陛下。
シカリさんは、高校生の頃、反戦活動に出会い、反戦活動からいつの間にか大学生の学生運動のお先棒担ぎとなり、政治活動へと進んでいき、いつしか、「天皇制反対」「天皇制廃止」という立場をとるようになっていました。
そのようなワシが、色々コメントできる内容ではありませんが、様々な障害を乗り越え、与えられた「天皇」という立場を考え、生きてきた一人の日本人の心からの訴えに向き合わないわけにはまいりません。
シカリさんが天皇制について言えるとしたら、一言、「懺悔」でしかありません。
上辺だけの政治思想にかぶれ、あたかも日本の政治を知り尽くしたような気持の錯覚にとりつかれ、その現場で誠実に生きている人を見ず、あまりにも軽い言葉で論じて来ていたこと、そのことを人生の終盤になるまで気づかなかった自らの無知と不徳を恥、懺悔するしかありません。
陛下、声震わせ「象徴の旅」回顧 最後の記者会見全文
日本経済新聞、2018/12/23 0:00
【 天皇陛下は23日、85歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち、皇居・宮殿で記者会見。即位後の30年を旅になぞらえて何度も声を震わせながら、象徴としての在り方や平和への思い、国民や皇后さまへの感謝を述べられた。2019年4月の退位を控え、在位中の記者会見は今回が最後となる見通し。発言全文】
(陛下)この1年を振り返るとき、例年にも増して多かった災害のことは忘れられません。集中豪雨、地震、そして台風などによって多くの人の命が落とされ、また、それまでの生活の基盤を失いました。新聞やテレビを通して災害の様子を知り、また、後日幾つかの被災地を訪れて災害の状況を実際に見ましたが、自然の力は想像を絶するものでした。命を失った人々に追悼の意を表するとともに、被害を受けた人々が1日も早く元の生活を取り戻せるよう願っています。
今年も暮れようとしており、来年春の私の譲位の日も近づいてきています。
私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。
(陛下)第2次世界大戦後の国際社会は、東西の冷戦構造の下にありましたが、平成元年(89年)の秋にベルリンの壁が崩れ、冷戦は終焉(しゅうえん)を迎え、これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。しかしその後の世界の動きは、必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し、また、テロにより多くの犠牲者が生まれ、さらには、多数の難民が苦難の日々を送っていることに、心が痛みます。
以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。終戦を11歳で迎え、昭和27年(52年)、18歳の時に成年式、次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は国際社会への復帰を遂げ、次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年、英国のエリザベス2世女王陛下の戴冠式に参列し、その前後、半年余りにわたり諸外国を訪問しました。
それから65年の歳月が流れ、国民皆の努力によって、我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め、平和と繁栄を築いてきました。昭和28年(53年)に奄美群島の復帰が、昭和43年(68年)に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年(72年)に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。
そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。
そして、戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、さらにその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。
「平成」は多くの自然災害に見舞われた時代だった。天皇陛下は皇后さまとともに何度も被災地を訪問。被災者らと悲しみや希望を共にされてきた。
(陛下)次に心に残るのは災害のことです。平成3年(91年)の雲仙・普賢岳の噴火、平成5年(93年)の北海道南西沖地震と奥尻島の津波被害に始まり、平成7年(95年)の阪神・淡路大震災、平成23年(11年)の東日本大震災など数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。ただ、その中で、人々の間にボランティア活動をはじめ様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気づけられます。また、災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には、いつも心を打たれています。
障害者をはじめ困難を抱えている人に心を寄せていくことも、私どもの大切な務めと思い、過ごしてきました。障害者のスポーツは、ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが、それを越えて、障害者自身がスポーツを楽しみ、さらに、それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。パラリンピックを始め、国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います。
(陛下)今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら、各国を訪れた際には、できる限り会う機会を持ってきました。そして近年、多くの外国人が我が国で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も、将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。また、外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め、各国との親善友好関係が進むことを願っています。
(陛下)明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇をはじめ私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来(じらい)この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います。
そして、来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に当たってくれていることに感謝しています。新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。
今年もあと僅かとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。
シカリさんに、今できることと言えば、これから先、天皇家があらゆる政治勢力に利用されることなく、純粋に象徴天皇として生活できることを祈るのみです。否、祈るだけでなく、そのような動きとは断固戦う姿勢を持つ必要があります。
そのことなしに、「平和憲法を守ろう」と言ってきた自らの立場全てが、欺瞞だったことになります。