江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

地域における人間関係希薄化の二つのパターン

 シカリさんのいい加減なブログ「江戸っ子でぃ」ですが、最近では記事もアップしなくなっています。

 にもかかわらず訪問して下さる方々がいる。ありがたいことです。シェーシェー。
 その訪問者の多くの方が読んでいる記事が、2010年9月1日にアップした『地域における人間関係希薄化の原因は?』という記事です。
 人間関係の希薄化について多くの皆さんが関心を抱いているということでしょう。
 どのような状況で関心を抱いておられるのでしょうか。すでに、孤立した状況の中におられるのでしょうか。それとも、身近に孤立した方の生活を見ているのでしょうか。
 
 シカリさんは前回の記事で、地域社会の崩壊の要因として、「家庭」の変質と「人間関係がなくても生活できる仕組み」にあると書いています。あの記事から8年経過した現在でも、そのような側面は強いととらえています。
 
 最近、人間関係を表す言葉として「絆」という言葉が良く使われます。ワシ自身も何気に使っています。ところが、ウィキペディアには次のように記載しています。
 
・・・絆は、本来は、犬・馬・鷹などの家畜を、通りがかりの立木につないでおくための綱。しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われていた。「ほだし」「ほだす」ともいう。
人と人の結び付き、支え合いや助け合いを指すようになったのは、比較的最近である。・・・・
 
へぇ~、そーなんだー、って感じです。
しがらみって意味もあるのか。人って、しがらみを嫌がるのかと思いきや、なくなると恋しがるんでしょうか?
 
人間のみならず多くの動物たちも、「絆」を感じているのかどうかは別にして、何らかの形で群れて行動していますよね。
移動する群れもあれば、移動しない群れもある。血縁集団の群れもあれば、繁殖のために群れをつくる動物もある。ある場合は、複数種で群れをつくる例もある。例えば、大型の魚類と共に行動するコバンザメとか、ヤマガラシジュウカラのような鳥もそうです。
 
人間にしても動物にしても集団行動をすることによって、様々な恩恵を受けているということでしょう。というより、そのような利便を確保することにより自らの属・種の存続を有利にしているのでしょう。
 ところで、こうしたつながりが人にどのように影響を与えるかという点について、月刊「科学」(2010年3月)の「幸福と人間・社会」(著:広井良典)には、次のような記述があります。
 
・・・経済成長あるいは一人あたり所得の水準が一定レベルを超えると、幸福度との相関関係が弱いものになっていくという点を踏まえつつ、ではそうした段階において「幸福」(この場合はある国や地域における人々の平均的な幸福度)を左右する要因は何かという点について、
 ①コミュニティのあり方(人と人との関係性)
 ②平等度ないし格差(所得・資産の分配の問題)
 ③自然環境とのつながり
 ④(広義の)スピリチュアリティ(精神的、宗教的な要素等)
をひとまず例示しているものである。・・・
 
 として図を示して説明している。(ここでは引用しませんが)
 つまり、この著者は、人と人の繋がりがワシらの幸福度に大きく関係しているという考え方をお持ちのようです。
 
 このことを逆説的に説明する資料が手元にあります。
 
 「安全・安心に関する特別世論調査」の概要版です。内閣政府広報室が平成16年7月に発表したものですが、「人間関係が難しくなった」と回答した人が、63.9%という数値を示し、その要因として次のような回答が示されている。
・人々のモラルの低下・・・・・・・・・55.6%
・地域のつながりの希薄化・・・・・・・54.3%
  ・人間関係を作り力の低下・・・・・・・44.5%
  ・核家族化・・・・・・・・・・・・・・41.8%
  ・ビデオ、テレビゲームなどの普及・・・38.8%
 
みなさん切実に感じておられるんですね。
 ところで、「モラルの低下」という現象ですが、人間が下劣化しているとかいう「個々人」の問題としてとらえるのは間違いです。モラル(倫理・道徳など)は、人々が集団で生活するうえでお互いを尊重し合うために編み上げてきた哲学のようなもの。したがって、人と人の繋がりが希薄になっている社会では、そうした規範が無視されていくのは、至極当然の話。
国を挙げて『経済的に豊かであれば良い。権力を持てればいい。』という偏った価値観で流される社会にあって、「一人孤高にモラルを守れ」というのも少しピントがずれている。なにせ、国のトップからして「ウソつき」なんですから。言うならば、日本中が「旅の恥はかき捨て」状態。
 
 あれ~~、今日の記事のタイトルは「・・・希薄化の二つのパターン」となっているのに前置きが長すぎじゃ~~んと批判を浴びそうですね。
 
 そうそう、「希薄化」にもいろんなパターンがあるということ。
 
 そうなんです。シカリさんは、希薄化のパターンを二つ考えてみました。それは、「地方における希薄化」と「都市における希薄化」です。
 
Ⅰ、地方における人間関係の希薄化
 
 これは言うまでもなく極端な人口減少による人間関係の『断絶型崩壊』と言えます。
 つまり、地域の伝統を引き継ぎ、関係を築く土台が亡くなりつつある。人がいないんですから・・・。
 
 地域の生活環境、農道などの生産環境などを共同で守る。まつり等の昔からのイベントを守る。娯楽を含む助け合い「講」などの維持。こうしたものが全て維持できなくなりつつある。
 地域における助け合いの強さを、ある意味示している言葉に「村八分」という言葉がありますよね。
地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話と火事の消火活動という、放置すると他の人間に迷惑がかかる場合(二分)以外の一切の交流を絶つことですが、残りの八分は、成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行だそうです。実に幅広い助け合いが行われていたわけです。
ところが、こうした行為の多くが現時点でも地域の人々だけで対応できることはなくなっている。対応できなくなっている理由としては、専門性を要求される内容があるだけでなく、多くの担い手が必要なため人口減少がはなはだしい地域では維持できなくなったのです。
このことについて、平成17年版「厚生労働白書」には次のような分析を記載している。少々長いですが引用します。

 
我が国における地域社会の原点は、古くから農村社会で培われてきた大家族や、それを中心とした共同体であるといえる。このような共同体は近代以前から全国の多くの地域に存在してきたところであり、1889(明治22)年に市町村制が施行される直前は、主に江戸時代から引き継がれた農村共同体がもとになってできた町村が70,000を超えて存在していた。このような共同体においては、生産活動・経済活動における相互扶助はもちろんのこと、生活困窮者の扶養や子育て等、生活面でも、家族と並んで、相互扶助の単位として機能してきた。
また、農村と同様に、都市においても、町内会のような形で、住民同士の相互扶助の仕組みが機能するなど、共同体的つながりが多く存在してきた。
しかし、近代化に伴う工業化や都市化の進行が、このような伝統的な共同体の在り方に大きな変化をもたらした。

 
厚生労働省としても、多くの皆さんと同様、地域社会の機能崩壊について深刻に受け止めているのである。ただ、その要因については「戦後、地域の産業構造の変化に伴い、都市への人口の流入や地方の過疎化の進行が・・・」との表現にとどまっている。
 
では、どのように人口の偏りが表れてきたのか、「都市・地域レポート2008」(国土交通省、平成20年)によると、都市人口の推移は、大正9年(1920年)には18.0%であったのが、昭和15年(1940年)には37.7%に上がり、昭和20年(1945年)に一旦27.8%に下がるものの、昭和45年(1970年)には72.1%に至り平成12年(2000年)には78.7%となってしまっている。

人口の都市部への集中の要因は、言わずと知れた工業化とそれに伴う就業人口の構造の変化があります。

江戸時代(1720年代)の日本の人口は、約3000万人。そのうち武士は約7%で、村に住む農民を主体とする百姓身分の人々は約85%程度であった。(「江戸時代論」佐々木潤之介著:吉川弘文館
時代は下がって昭和25年(1950年)の産業別就業者数比率は、第一次産業(48.6%)、第二次産業(21.8%)、第三次産業他(29.7%)となり、昭和50年(1975年には、第一次産業(13.9%)、第二次産業(34.2%)、第三次産業他(52.0%)、平成12年(2000年)には、第一次産業(5.1%)、第二次産業(29.8%)、第三次産業他(65.0%)となり、第一次産業は消滅寸前の状態に至っている。
実に、いびつな国づくりを進めてきたわけです。
こうした状況に危機をおぼえた地方・中央としても様々な取り組みを行っていますが、その象徴的取り組みが国を挙げた「過疎対策事業」の推進です。
過疎地域対策緊急措置法(適用期間:昭和45年度~昭和54年度)は、その後、名称変更などと目的の若干の変更を伴い、過疎地域振興特別措置法、過疎地域活性化特別措置法、過疎地域自立促進特別措置法とつながり現状でも続いている。
ところが、これらの目的を見ると、第1期が「人口の過度な減少防止、地域社会の基盤を強化」第2期「過疎地域の振興」第3期「過疎地域の活性化」第4期「過疎地域の自立促進」と微妙に変化して、現状では人口減少を抑える目的は消えてなくなっている。さらに、この事業の実態は、多くが生活基盤の維持や産業振興基盤整備となっており、人口の偏り地方の過疎化を食い止める有効な内容とはなりえていない。
端的に示しているのが、第一次産業の振興について、行政関係者の頭にあるのは「農業所得の向上」であり「産業としての農業」の振興なのです。読んでおられる皆さんの中にも、『そーだろー。農業振興は大事だよ。』と考える方がおられるでしょうね。
でも、違うんです。
大事なのは、産業としての農業の振興ではなく、「農家数」の維持だったんです。
戦後の生糸・オレンジの輸入自由化に始まる農産物輸入の自由化は、従来の小規模農業では太刀打ちできない厳しい経済環境を作り出し、農業からの人離れだけでなく、農業の集約化(大規模化)、機械化を進めざるを得なくなり、地方の人口減少はとどまることがなかったのです。
農村では、一時「出稼ぎ」と言う形で、時期的に都市部で働き農繁期には農村に帰るという就業形態が存在し、地域の活力を維持する有効な生活様式となっていた。
厚生労働省「平成23年度出稼労働者パンフレット」によると、昭和47年に約55万人いた出稼労働者は、昭和59年には約25万人、平成4年には約16万人、平成17年には約3万人、そして、平成22年には約1万5千人にまで減っている。
この数値の変化が示しているのは、都市と農村部の経済格差が「出稼ぎ」という形態では埋めきれないほどに広がってしまったということと、時期的に携わるだけで経営できる小規模の農業では生きていけなくなってしまった現状でしょう。
 
唐の李世民(598年~649年)は、「夫食為人天、農為國本」(それ食は人の天たり、農は国のもとたり)と『帝範』に記している。
近年の日本において、「農は国の基であり、農民は国の宝である」と宣言して賀川豊彦が日本農民組合を設立したのは1921年(大正10年)のこと。
ここで言われている「農は国の基」の意味は、現在広く言われている「農業振興」とは大きく意味が違う。農業は食を保障するだけでなく、大家族を維持し地域社会を形成するし、農地の管理には領地(領土)を守るという意味がある。
日本の農政は、この重大な農業の持つ意味を見失い、経済面のみの成果を追い続けた結果、いびつな国造りの一端を担うこととなったのです。
 
農家の消滅という形で進行してきた地方の人口減少は、あらゆる文化を継承すべき担い手の消滅という形の地域社会歴史の「断絶型崩壊」であることを理解する必要がある。
 
Ⅱ、都市における人間関係の希薄化
 
 一方で、都市部においても人間関係の希薄化は深刻となっている。
 人は、うんざりするほどいるのに、なんで?
 都市部における人間関係希薄化は、人間関係の「圧死・分断型崩壊」と言えます。
 都市といえども昔からの町内会などは存在するし、現在でも活動している。他に、様々な地域イベントを支える振興会などの組織もある。にもかかわらず、人間関係が希薄化している理由はなんでしょうか。
 
 それは、昔からの人間関係を押しつぶしてしまうほどの無縁化人間が増えてしまったということ。
 具体的にいうと、高層共同住宅の居住者の増加と職住分離による地域と関わる時間の減少、夫婦共働きによる地域と関わる家族構成員の減少、労働時間帯の多様化による生活時間の変化などである。
特に、マンションなどの高層共同住宅の普及は致命的だったと思う。
 
 住宅の建て方別の統計によると、昭和33年、一戸建て(77.2%)、長屋建て(16.6%)、共同住宅(5.6%)だったのが、平成25年には、一戸建て(54.9%)、長屋建て(2.5%)、共同住宅(42.4%)となり、階数区分別にみると、昭和43年、1・2階(74.6%)、3~5階(24.3%)、6階以上(1.1%)であったのが、平成25年には、1・2階(26.7%)、3~5階(37.8%)、6階以上(35.5%)となり、地面と切り離されて暮らす人々の割合が大きくなっている。(平成25年住宅・土地統計調査:総務省統計局)

 当然、地方では共同作業で処理する生活環境保全も、オーナーや管理組合との関係で終わり、地域社会とは関係のないところで生活している。
 自然と向き合い触れ合うこともなく、自然からの喜びも享受できず、その脅威の偉大さを肌で感じ怯えることもない人々は恐れを共有することも出来ない。
 地域社会では、基本的には自然との向き合いの中で人間関係が形成され、季節の移ろいの中で様々な祭りが発生し、その維持管理の中で人間関係が形成されてきた。都市部においても、そのような営みは生き続けているが、そうした営みの姿を消し去るほどの高層化集団が大都市の人間関係をつぶしてしまっているんです。同時に、昔ながらの街をビルディングが分断し物理的にもつながりにくい環境を作り出している。
 文字通り都市部では、人間関係が「圧死・分断型崩壊」を起こしているのです。
 その中で、未熟な若い夫婦は子どもへの虐待を行い、高齢化した親を持て余した子どもは、親が死んでも放置している。こうした現象を個々人の人格、責任と切って捨てるのは簡単だが、果たしてそれで良いのか。どのような社会を形成するのかと言う問いの含む意味は、意外と深いと思う。
 
 もっと具体的に書かないといけないが、今日は、もう疲れた。
 
 最後に、名古屋経営短期大学の学生によるものとみられる論文から引用させていただく。発表の時期は2010年頃と思われるが、『孤独死孤立死)の定義と関連する要因の検証及び思想的考究と今後の課題』というものです。
 この中に、次のような一節があります。
 
徳島県には過去18年間孤独死ゼロの地域があり、そこでは藩政の昔からの地域の老いを支えるネットワークが今に残っている。」
 
 具体的記述も分析もないが、参考にすべき内容が含まれているような気がします。
 おわ~~り。
 最後まで、読んでくださりありがとうございました。