江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

「自然」という言語認識の定着過程についての一考察(下の3で終わり)


「自然」という言語認識の定着過程についての一考察(下の3で終わり)


9,すれ違う言語認識と分離した「自然」


歴史的に大きなギャップを背負って移入された「自然」は、坪内においてはシェークスピアを紹介するための言語として、徳富蘆花においては風景画家コロオを紹介する言語として認識され、文学上の新しい概念としての言語、「はやり」の言語としてしか定着していなかった。
このことについて、相馬庸郎著『日本自然主義論』(八木書店)には、次のように記述している。


<日本自然主義文学の社会的ひろがりの狭さや浅さも、何らかの形
    でこの「自然」概念の性格とかかわりがあることは、まず疑いえない
    ところである。>
<日本の自然主義が自然科学的な決定論などとむすびつかず、「象
    徴派」的なものとむすびついていったことは、その「自然」概念自体
    の特殊な性格とも関連している。>


 柳父章は、こうした現象を次のように分析している。


<「自然」は、nature翻訳語とされることで、直ちにnatureの意味がそこに乗り移ったわけではなく、まず、natureとおなじような語法で使われるようになった。>
<論理学の用語で言えば、内包的な意味はもとのままで、外延的に、あたかもnatureということばのように扱われた。対象世界を語ることばのように扱われた。これは意味の上からは矛盾である。・・・使用者は、矛盾を埋めるような意味を求めていく。・・・>


実に不十分な形でしか認識されなかった「自然」は、やがて日本人にとって数々の悲劇の舞台を作り出すこととなる。
それは他でもない、「ひとつの言語」に自然科学的解釈と哲学的解釈の二つの認識が分離し徘徊することによってもたらされたものである。
日本人は古来自然界から生活資材を調達するときには、それらの命に感謝し、それらを与えてくれた山・川・海に感謝していた。さらには、日本人は自らの命はこれらにより「生かされ」ている、という認識すらあった。
にもかかわらず、明治以後の日本の近代化はそのような「命の畑」を踏みにじり、変質させてしまうものとなった。
日本古来の思想は、明治以降の近代化を前にして、なぜ無力だったのだろうか。
キース・トマスは『人間と自然界』の中で、この日本の状況についてもふれて次のように記述している。


  23P
……現代でも、日本人は自然を崇拝しているといわれているが、にもかかわらず日本の工業汚染を阻止できなかった。生態学的問題は西洋固有のものではない。というのも、土壌の浸食、森林伐採、動植物の絶滅は、ユダヤキリスト教の伝統がまったく影響していない世界各地でおきているからである。……


このキース・トマスの指摘を読むにつれて、人間による「自然界の略奪」に関するカール・マルクスの指摘の鋭さは注目に値する。
私達の日本も、明治維新という形で資本主義社会へ仲間入りし、いわゆる近代社会へと変貌を遂げてきた。この過程で、私達日本人は「自然」という言語に対する認識の足りなさから、西洋での過ちを理解できぬまま近代化の道をひた走ったのである。
近代化の原動力は、科学であった。
「自然」という言語に対する認識不足に見られるように、社会生活の基本ツールである言語との密接な連携のないまま取り入れられた科学は、生産性向上のみを至上命題として暴走する宿命を負っていたのである。
しかも、数千年に亘って培ってきた森羅万象のひとつ一つの個物との「向き合い」の関係を無惨にも裁ち切り、「自然」を改良・征服できるという幻想とともに、自ら寄って立つべき大地を限りない荒廃へと導く暴走を始めたのである。
明治は、「日本の近代化のレールを敷いた」時代といわれる。しかし、そのレールは「克服・改良できる自然」と「感謝し恩恵を与える自然」という、ふたつの異質な土台の上に敷かれたレールであった。
そして、現代の私達がしていることは、レールの上を走る電車に乗り、そのレールの下の土台のあり方を論議する、そのようなことではないだろうか。
それにしても、「自然」という言語に対する分離した概念が、人々の発想を貧困にし、本来豊かなはずの日本人の感性を鈍らせて来たことを、大いなる反省をもって再確認する必要があるのではないか。
その際、ちょっと電車から降りてみる勇気も必要であることをあえて付言する。


10,むすびに―失われた○○川の自然への哀愁を込めて―


昭和27年に生まれた私は、いつのまにか歴史の証言が出来る年齢となった。
ふるさとの四方を山に囲まれた閉鎖的な風景を私はあまり好きではない。ただ、集落を二つに分断するように流れる○○川は、幼い頃からの遊び場であり、感性を育む学びの場であり、今となっては唯一郷愁を覚える場所であり、好きな場所である。
大きく蛇行したその川の岸辺は、様々な植生で賑わい、水中の生物と陸上の生物たちの出会いの場であった。
残念なことに、この川も近代化という流れの中でその様相を大きく変えてきた。石積みで始まった河川改良は、やがてブロック張りの川岸に変貌し、大きく蛇行していた川筋は集落近辺では直線化され、幼い私達が鮎と戯れた小さな堰はいつの間にか強化ゴムによる水量調節施設へと変わっていった。
かつて小さな堰の下流では、春先になると四つ手網で白魚を獲る風景が風物詩となっていたが、今、その堰の下流域は惨めにも水底は泥の堆積が日常化し、白魚の姿は見られなくなった。
こうした変貌を悲しむのは私だけではない。この地域の人々も白魚を恋しがり、見られなくなった岸辺の植生を懐かしんでいる。
ところが、皮肉なことにこのような河川改良を行政に働きかけたのは、他でもないこの地域の人達なのである。数年に一度ある大水の恐怖から、水田を守り、生活の安全を守るために、この地域の先輩たちは行政にすがり○○川の改良をするしかなかった。
さらに皮肉なことに、この大水の恐怖を招いたのも、またこの地域の人々の生活のための努力の結果であった。
本来、○○川は山間を流れ△△△湾へと注ぐ静かな川だった。しかし、河口域で行われた干拓事業により、その流れは大きく変わり、その結果として、数年に一度の大雨の時には氾濫するしかそのエネルギーを開放する方法がなくなったのである。
明治期に移入された「自然」という概念は、残念なことに十分認識されないまま今日を迎えていると言わざるを得ない。
メイナク族の酋長の言葉に触発されて分け入った「自然」の林であったが、私達日本人も彼等と同じ言語の錯綜の中にいることを思い知らされた。
ちなみに、日本人の周りには「自然」という言葉では表現されていなかったが、森があり、川があり、海があり、それぞれにはそれぞれの禽獣たちが生き生きと生活し、それぞれには人々が畏れる神がいた。
山の入口には「山の神」が祀られ、川の淵には「水の神」が祀られ、田んぼの畔には「田の神」が祀られ、家の中に入れば竈の近くには「火の神」が祀られており、人々はこれらを恐れ、感謝しつつ生活していた。
いつのまにか、これらのモノとの距離を忘れ、傲慢になってしまった私達日本人は、大事な自分の中の何かをどこかに捨て去って来たのではないだろうか。
21世紀の初頭にあたり、あらゆる分野で謙虚な気持ちで、捨て去ってきたモノを再確認し、必要なモノについては復権を果たさせるという作業は大変重要であると考えるのは私だけではないだろう。
昨今、根拠のない情緒的な歴史論議が横行しているが、日本という狭い国土の上で繰り広げられた先輩諸氏の七転八倒の歴史全てを受け入れ、後続への強い愛着を込めて、あえて苦々しい事柄からも逃げることなく、真正面から受け止める生き方、研究し普及する姿勢が必要であろう。(やっと、終わり)


 
つまらん文章をダラダラと・・・・失礼しました。

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