江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

「自然」という言語認識の定着過程についての一考察(下の2)

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やっぱり、完結できなかった・・・。



「自然」という言語認識の定着過程についての一考察(下の2)


坪内には、シェークスピアを日本に普及する上で、「自然」という言語を日本人に理解してもらう必要があったのである。
そして、ここに初めて「自然・しぜん=nature」という理解が定着したと言える。これを時期的に言うならば、「小説神髄」をあらわした明治18年から「『マクベス評釈』の緒言」までの間に確立されているわけであるが、明治24年というのは、「『マクベス評釈』の緒言」の出版の年であることから、推敲の時間などを考えると、明治23年以前に坪内の中では確立されたと考えるのが妥当であろう。
余談ではあるが、「小説神髄」から「『マクベス評釈』の緒言」まで約6年のブランクがあるが、この時期、坪内にとっては決定的な出来事が起きている。
それは、明治19年1月25日の二葉亭四迷の来訪と以後の二人の親交である。(『坪内逍遙第一書房より)
ちなみに、二葉亭の「小説総論」(明治19年)にも「自然」という言語は使われているが、ここでは「偶然」に対置する意味で「当然・必然」の意味で使用されている。(前出文学全集より)


 335P
……偶然の中に於いて自然を穿鑿し……
 336P
……種々雑多の現象(形)の中にて其自然の情態(意)を
直接に感得するものなれば……
……実相界にある諸現象には自然の意なきにあらねど、夫
の偶然の形に蔽はれて判然とは解らぬものなり。……
……意は実相界の諸現象に在って自然の法則に随って
発達するものなれど……


二葉亭は坪内より5歳年下であるが、きまじめな彼の性格は坪内にも影響を与えている。その事について坪内自身が次のように語っている。(『坪内逍遙第一書房より)


…・「私は切に自己改造の必要を感じはじめた。主義なき理想なき自分を恥じた。で、二十二年度に於ける二人の話柄は、主としてお互ひの性格論、修養論で終始するのが例であったが、…・」


 さらに、同書によるとシェークスピアの「シーザー」を翻訳したのは明治16年のことであるが、「22・23年までは本格的にシェークスピアについて研究していなかった」と断定している。
そして、この「22・23年」は、22年には東京専門学校(後の早稲田大学)の学生を相手に「ハムレット」の私宅講義を行っており、239月の文学科の創設と同時に英文学を担当し、シェークスピアやスコットなどの講義を開始していることから、英文学者としての逍遥の地位の確立と逍遥自身のシェークスピアの言葉との関係が確立されたであろう時期として重要な意味を持つものである。
つまり、日本に「自然」を紹介することとなった坪内ではあるが、レーザムとの出会い、彼を通してのシェークスピアとの出会い、さらには二葉亭四迷との出会いを通して、彼自身の文学観の確立、シェークスピア観形成の過程として「自然」を自分のものとしていったのである。
 まさにこの事こそが、「自然・しぜん=nature」という今日的意味で「自然」が言葉として必要とされ、使用し始められた要因といえるのではないか。


 
8,西洋における「自然」


坪内によって確立された今日的「自然」だが、この時期以降、多くの作家の作品の中でこの言語を散見するようになる。
いくつかの例を参考のために記載する。


森鴎外(角川文庫)
     「ふた夜」(明治23年1月)
…この美しき自然の屋根の下にて、粗末なる木卓を前にしたる二人の若き士官あり。…


北村透谷(日本文学全集・筑摩書房
     「明治文学管見」(明治26年4月~5月)
…単に自然の模倣を事とする美術を以て真正の満足を得ること能はざるは必然の結果なる…


徳富蘆花(「自然と人生」・岩波文庫
    「風景画家コロオ」(明治30年9月)
…彼は十分に自然を愛し、自然を解し、自然に同情を有し、而して活ける自然を伝ふる…


田山花袋(日本文学全集・筑摩書房
    「インキ壺 抄」(明治42年11月)
…人間は自然の一部でありながら、自然の姿を其儘実現することが出来ぬとは情けないことだ…<象徴派>
…従って自然でなく、自然の一部分の「美の表現」だけを目的とした…<メッキ>
空知川の辺りに行き着いた時の感想、落木蕭条たる大深林の底から自然の威圧におのゝくくだりこそ、独歩の自然観…<国木田独歩


この様な経過で定着していった「自然」ではあるが、果たして彼等が参考とした西欧の「自然」と同質のものだったのだろうか。
明治期の文人達が参考としたイギリスの17世紀から19世紀はどのような状況下にあったのか。
キース・トマスの『人間と自然界』(法政大学出版局)から幾つか引用させてもらう。


<17世紀初頭になると都会の工場から出る有害物をめぐって多くの
   争いがおこったのである。ジェームズ一世は、ロンドンの澱粉製造業
   の汚染を告発する一連の公布書をだし、セント・キャサリンズ・バイ・
   ザ・タワーの明礬工場から排出されるガスが住民に有害で、その廃
   棄物がテムズ河の魚を殺している、と1627年にオールドゲイトのセ
   ント・ポトルフ教区の住民たちは訴えている。>


<1844年にケンダルとウィンダーミア間に鉄道敷設計画がもちあがっ
   たとき、湖沼地方―「ランカシャーの全部とヨークシャーの大部分」
   を彼はこう呼んでいた―が人波で氾濫するという主旨の見解から、
   ワーズワスは反対した。>


<17世紀半ばからあらゆる種類の野鳥に加えられる残虐行為を非難
 した詩集が、着実に増加し、中産階級の人々の感性に予想できない
   ほどの効果をもたらしたのである。>


<18世紀を通じて二百万エーカー以上の土地が整然と開墾され、農
   耕地や牧草地に変貌した。…中略…だが、ピクチャレスクな美の愛
   好家にとって、「生垣で私有地をとりかこみ四角四面の定形に分割
   すること」はウィリアム・ギルピンの言葉を借りていえば、《不快極まる
   こと》であった。>


以上の記述を読み、読者の皆さんはどのように感じるだろうか。
なんと、公害で苦しんだ1950年代から今日の日本の状況そのものであり、私達が考えなければならないと突きつけられている諸問題と同じ事が、当時のイギリスではすでに起きていたのである。
この様な状況を、明治期の文壇の人々が理解できるはずもなく、豊かな自然を満喫していた日本の人々にとって「自然」は文学上の言葉であり、「はやり」の言葉としてしか定着していなかった。
一方では、イギリスの人々にとって「自然」は、人間に豊かな心を保証してくれる「感得の対象」だったのである。明治期の日本人にも親しまれたワーズワースの詩「虹の歌」によりその一端を観てみよう。(「英米詩集」白鳳社より)


空に虹を見るときに
私の心はおどる
私の生涯の始まったときもそうだった
大人となった今もそうである
年をとってもそうだろう
     さもなくば死んだ方がよい
子供は大人の父である
さればわたしの生涯の一と日一と日が、願わくは
自然に対する畏敬の念でつながれているように


さらに、おなじイギリスでは別の形で「自然」を見る人々もいたのである。その事について、先出の『人間と自然界』から引用させてもらう。


  21P
……楽しみのために動物を好んで殺そうとする人々さえ―と1642年にトマス・フラーは述べている―「被造物に対する人間の支配特権」を援用できるし、熊攻め〔イヌをけしかける昔の見世物〕や闘鶏についても、「キリスト教公認のスポーツ」と強弁できるだろう。動物にたいする人間の権威について、1735年に狩りを好んだ詩人、ウィリアム・サマビルは紋切型の世知をいみじくも次のように要約している。
         「獣はかの人の持ち物
            かの人の意志に従い、かの人のためにつくられしもの
         邪魔になれば殺し、益あらば
           生かすもよし、人こそまさに唯一の専制王」


  23P
……カール・マルクスが指摘したように、ユダヤ人が決して行わなかったやり方で自然界の略奪へとキリスト教徒をおもむかせたのは、宗教のせいではなく、私的所有と貨幣経済の到来がその原因であり、《自然の神格化》に終止符をうったのは、いわゆる「資本の偉大な文明化作用」と彼がよんだものにほかならない。……


キリスト教の自然観が与えた影響は、イギリスのみならず西洋全域において、「かの人の創造物である自然を、かの人の子である人間が優先的に使役することは当然である」という考え方として生き続けていた。
では、なぜキリスト教においては、このような自然観が育まれたのだろうか。
このような自然観、つまり「人間の生活のために改良し、征服すべき対象」という、地上の全てのモノを把握し尽くすという思考パターンは、おそらくはキリスト教が成立した時代の自然と人間の関係を示しているのではと推察できる。
ちなみに、旧約聖書日本聖書協会・1955年改訳版)から当時の状況を推察できる表現を幾つか引用する。


ヨブ記
    726P…ひでりと熱さは雪水を奪い去る
陰府が罪を犯した者に対するも、これと同様だ
    728P…夜はつむじ風が彼を奪い去る


詩篇
    790P…み前には焼きつくす火があり
そのまわりには、はげしい暴風がある
    806P…大水が流れ来て、わたしの首にまで達しました
わたしは足がかりもない深い泥の中に沈みました
わたしは深い水に陥り
大水がわたしの上を流れ過ぎました


    958P…主はエジプトの海の舌をからし
川の上に手を振って熱い風を吹かせ
その川を打って七つの川となし
 963P…ニムリムの水はかわき
草は枯れ、苗は消えて、青い物はない


四季があり季節折々に山・川・海からの恩恵にめぐまれて生活できた日本の人々と違い、過酷な気象状況の中で生きなければならなかったエジプト及び中東の人々は、「自然」とは「克服しなければならない対象」であり、「神が与えた試練」であり、勝ち残った者、神に選ばれた者のみが「自然」の恵を「占有」することを許されると理解するのであった。
極端な言い方をすれば、「自然から与えられた試練とその克服のための葛藤」こそ、キリスト教成立の心理的背景となっているのではないだろうか。
したがって、キリスト教の自然観が先のような形で結実するのは、当然といえば当然である。
春には、さくらんぼや桃があり、初夏の時期になると山桃や桑の実やびわが、秋には柿の実取りや栗拾いがある。
それこそ次から次ぎに、四季の贈り物が送り届けられる。
日本人はこれらの贈り物のひとつ一つに感謝し、かみしめ、来年も同じように実りがあるように田や畑や森に恩返しをする。したがって、それら全体を把握し「自然」などと意識する必要はなかったのである。
たまに訪れる自然災害でさえ、田や畑に潤いをもたらし、森を鍛え、川や海を浄化してくれる恵の現象ととらえる。そのような先祖からの教えが否定されず生き続けてきた。
このような生活環境の違いが「大風」「大水」「ひでり」などの自然現象を、人間を圧迫する現象であり克服するべき対象とする西洋の人々と、来年への飛躍を約束してくれる「一時的」な「神の思し召し」とらえる日本人の思考パターンの違いをはっきり認識した上でこそ、「自然」という言語の背景を理解できるのだろう。
つまり、生活する自然環境の違いこそが西洋の人々と日本人の自然に対する思考パターンを違わせる大きな要因となってきたのである。同時に、このことは自然と自らの関係を定義する言葉もまったく異質なものとして育むこととなったのである。(また、つづく)





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