江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

子どもの日に【親と子】








シカリさんには、二人の父母がいます。変な話ですね。





わけあって中学生の時から、伯母夫婦に育てていただいたのです。







血縁なくても幸せ親子 不妊治療10年、迎えた養子


朝日新聞デジタル 54()2221分配信


 


日曜の午前。遊び疲れて抱っこをせがむ2歳の息子を真ん中に、妻(47)、夫(46)と3人、川の字になってじゃれあった。「パパとママと3にん」。息子の口癖がでる。

 「40代半ばで親になって、今が一番幸せ」。2年前に特別養子縁組で8カ月の息子を迎えた大阪府の夫婦は口をそろえた。

 2人は妻が29歳の時に結婚。自然妊娠せず、34歳から月約20万~50万円かけて体外受精の治療を始めた。正社員の妻は、煮詰まらないよう、趣味の楽器演奏も続けながら取り組んだが、だんだんつらくなった。

 排卵のための自己注射、激痛が伴う採卵。妊娠検査は陰性の連続で、病院のトイレや帰り道で泣いた。2人は子どものいる親戚や友人まで避けるようになった。妻は卵子提供や養子を迎えることも夫に相談したが、「覚悟ができない」と言われ、治療を続けた。

 44歳。妻は、体外受精に使える卵ができなくなった。採卵は26回、費用は1千万円になっていた。

 妻は明るくなった。「やれることはやった。私は十分幸せ。もう諦めよう」。夫婦は、旅など趣味を満喫するようになった。

 「特別養子縁組で子どもを迎えないか」

 半年後の正月休み、夫が打ち明けた。40歳を過ぎてから、考えてきた選択肢だった。夫は、妻が無理に明るく振る舞っているように見え、「僕に任せて」と説得。「今さら」と妻は怒ったが、4日間話し合い、「あなたがリードしてくれるなら」と同意した。

 まず児童相談所を通して、里親の資格を取る研修を受けた。新聞で特別養子縁組を希望する子どもの記事をチェックするようになった。

 夫婦は「血のつながりのない子をかわいいと思えるだろうか」と不安もあった。だが、乳児院で抱っこした赤ちゃんのあたたかさに、「血縁など気にしない」と強く感じ始めた。

最終更新:54()2221


 





 色んな事情で子どもを授からない夫婦が不妊治療にすがる姿を見て、『養子ではだめなのだろうか』と、常々思っております。




江戸時代までは、養子縁組は普通だったのですが、明治以降は「血統主義」が重視されるようになり、段々、養子縁組が減っているようですね。これに拍車をかけたのが、医療技術の発展があるのでしょう。




やはり、『出来るものなら自分たちの血を分けた子供を」と思うことも理解できますが、そのことによって夫婦が追い詰められ、特に、女性が責任を問われるような生活を強いられるのは正常だとは思えません。




江戸時代は、自分の子がいても、養子を迎える場合もありました。色んな事情で自分の子が家督を相続することが出来ない場合など、そうした能力のある子を養子として迎えていたのです。





まあ、江戸時代の話しはこれくらいにして、伯母夫婦に育てていただいたシカリさんは不幸だったのか。




小学校を卒業してすぐに、五島から海を渡って長崎に来ました。その時の寂しさと言ったら言葉にもなりません。




そんなワシを暖かくくるんでくれた伯母夫婦の家族は、ワシにとっても大事な家族でした。ワシが喜ぶと叔父伯母も喜び、伯母が喜ぶとワシも嬉しくて仕方がありませんでした。




そんな生活の繰り返しは、まぎれもなく「家族」でした。そんな生活は、「幸せだった」と言えると思います。




夫婦と子供が家族を構成する。血の繋がりがあろうと、なかろうと、一緒に生活し、喜び悲しみ頼り合う。家族では、「一人だけの幸せ」と言うことはなく、「お互いの幸せ」が全体に共有される。不思議な集団です。




さらに不思議なことに、どこの家族でも、子どもの将来に、とてつもなく夢や期待を抱きます。きっと、その先に何か、もっと豊かな家族の未来を夢見ているのでしょうね~。そして、そうした親たちの思いを背負った子どもたちは、大事に大事に育てられるのです。




どのような事情・理由・状況があったにしても、子どもたちに大人たちの十分な愛情が注がれる、そんな日本であり続けてほしいものです。そして、決して、その命が無駄に傷つけられたり、失われることがないように、子どもの日に祈ります。


 


 


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