長崎は9日、70回目の原爆の日を迎える。爆心地に近い平和公園では平和祈念式典が開かれる。
原爆が投下され多くの人が水を求め亡くなったあの日から70年。8日、平和公園では平和祈念式典で原爆犠牲者に捧げる「献水」用の採水が行われ、小学生から高校生の代表3人が水を汲みあげた。
西浦上中学校3年・楠田夢翔さん(14)「未来の子どもたちに伝えるのは私たちの世代だと思う」
長崎商業高校2年・梶聖菜さん(17)「水というものがどれだけ大切かと考えながら採水しました」
被爆70周年の平和祈念式典は9日午前10時35分から行われ、長崎市の田上市長は平和宣言で安全保障関連法案に言及し、政府に対し国会での慎重な審議を求める。
母のウソ
『お母さんはね、飛行機が飛んで来るとば見とったとさ。そしたらパラシュートが開いて、パッて光ったけん、屋根の上ば、ピョンピョン飛んで逃げたけん、なんともなかったよ』
被爆について聞く私たちに、母はこう答えていた。しかし、それは私たちを心配させないためのウソだった。
2011年4月。母から電話が入った。弟が福島に派遣されることで『なんで、私は2回も原爆で恐ろしか目に合わんばいかんとね。私が何ば悪かことしたっね』と泣きながらの電話だった。これほどの母の泣き声に接するのはこれがはじめだった。
その数か月後のお盆。
集まった私たち子どもや孫に、母は、被爆の時の状況を詳しく話し出した。
西坂小学校の上にある長屋の通路で友達と4人で遊んでいるときに被爆し、近くの家の中まで飛ばされていたこと。自分はお諏訪さんの防空壕まで逃げたこと。その防空壕では自分と同じ年頃の子どもが「水を下さい」と言いながら死んでいったこと。
母は、一緒に遊んでいて死んでしまった友達のことが忘れられないと結んだ。
この頃から、母は徐々に感情を失い、生活のリズムを失い、人間関係を失った。
今、被爆70年を数えることもなく施設で静かに暮らしている。