江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

長崎 きょう70回目の「原爆の日」










日本の無謀な戦争とアメリカの見境のない大量虐殺の犠牲になったのは、いずこも大量の市民たち。







今、70年前の日本の軍事体制を美化しようという動きや、世界中で見境のない大量虐殺を行っているアメリカの侵略戦争を正義としそれに加担しようという安保関連法案が国会で可決されそうになったり、70年前の多くの犠牲が踏みにじられようとしています。









長崎 きょう70回目の「原爆の日


日本テレビ系(NNN 89()145分配信


 長崎は9日、70回目の原爆の日を迎える。爆心地に近い平和公園では平和祈念式典が開かれる。

 原爆が投下され多くの人が水を求め亡くなったあの日から70年。8日、平和公園では平和祈念式典で原爆犠牲者に捧げる「献水」用の採水が行われ、小学生から高校生の代表3人が水を汲みあげた。

 西浦上中学校3年・楠田夢翔さん(14)「未来の子どもたちに伝えるのは私たちの世代だと思う」

 長崎商業高校2年・梶聖菜さん(17)「水というものがどれだけ大切かと考えながら採水しました」

 被爆70周年の平和祈念式典は9日午前10時35分から行われ、長崎市の田上市長は平和宣言で安全保障関連法案に言及し、政府に対し国会での慎重な審議を求める。


最終更新:89()315








今日は、長崎の被爆の70年目の日。






シカリさんの母も長崎で被爆しました。






そのことを先日長崎新聞に掲載していただきましたので、その原文をここに掲載します。読んでください。







 母のウソ


  母が被爆したのは、中学1年生の時。

 『お母さんはね、飛行機が飛んで来るとば見とったとさ。そしたらパラシュートが開いて、パッて光ったけん、屋根の上ば、ピョンピョン飛んで逃げたけん、なんともなかったよ』

 被爆について聞く私たちに、母はこう答えていた。しかし、それは私たちを心配させないためのウソだった。


 2011年4月。母から電話が入った。弟が福島に派遣されることで『なんで、私は2回も原爆で恐ろしか目に合わんばいかんとね。私が何ば悪かことしたっね』と泣きながらの電話だった。これほどの母の泣き声に接するのはこれがはじめだった。

 その数か月後のお盆。

 集まった私たち子どもや孫に、母は、被爆の時の状況を詳しく話し出した。

 西坂小学校の上にある長屋の通路で友達と4人で遊んでいるときに被爆し、近くの家の中まで飛ばされていたこと。自分はお諏訪さんの防空壕まで逃げたこと。その防空壕では自分と同じ年頃の子どもが「水を下さい」と言いながら死んでいったこと。

 母は、一緒に遊んでいて死んでしまった友達のことが忘れられないと結んだ。

 この頃から、母は徐々に感情を失い、生活のリズムを失い、人間関係を失った。

 今、被爆70年を数えることもなく施設で静かに暮らしている。












長崎・広島の原爆で命を落とされた多くの皆様の安らかなお眠りをお祈りするとともに、世界が一日も早く戦争のない社会を実現できるようお祈りいたします。










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