江戸っ子でぃ

長崎県五島市に住む老人が、政治に関する愚痴などを書いています。

69年目の法要

人生、長く生きているといろんなことがあります。
 
 
 
 
 
以下の文章は、ワシの家族にまつわる実話です。この内容は、12月14日付け長崎新聞「声」欄に掲載されました。(タイトルは「絶望のふちに立たせた国家」と修正されていました。)
 
 
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特定秘密保護法が施行された今月10日、私は86歳の父と玉之浦町大宝寺で法要を営んでもらった。供養したのは、父の兄・○○の霊。
 
○○は、大正13年12月8日に△△△に生まれ。長じて青年学校の教員をしていた昭和19年に召集された。
 
戦後、その消息は分からなかったが、昭和33年10月末、県知事報告で昭和20年8月17日に中華民国間島省において戦死したとの知らせが届いた。
「おじさんの遺骨は帰っていないけん、リンゴば入れとっとよ」そんな葬儀が行われた。
 
あれから数十年。この11月、父に厚生労働省からの文書が届けられた。
 
中身は、○○が昭和20年8月23日に捕虜となり、9月21日に旧ソ連ハバロフスク第18収容所に収容され、11月17日に回帰熱により入院。
12月10日3時10分に死亡し、コムソモリスク市ジョムギ村墓地の墓地番号16に埋葬されたとの記録だった。22歳になった2日後の死亡だった。
 
召集されたとき、激戦地に配属されたとき、捕虜となったとき、過酷な収容所での労働の日々。○○は幾度の絶望を味わったのだろうか。
 
日本が、この先、「正義」「国益」などの漠然とした理由で、若者を絶望の淵に立たせることがないことを切に望む。合掌。
 
 
 


 
 
 
ビックリしたのは送付された資料の中には、叔父を診断した病院のカルテやその他収容記録のコピーまで添付されていました。
 
 
 
旧日本軍は、自らの軍隊の兵の行方すら把握していないというのに。
 
 
 
このことには、ある意味感謝したい気持ちでいっぱいです。もちろん、終戦後に捕虜にする必要はないというか、してはいけないはずなのに、という気持ちもあります。
 
 
 
 
満州戦線では、日本軍の幹部の中には、ソ連軍の侵攻を知りながら部下や市民には知らせず、軍費を持ち逃げしたものもいたそうです。
 
 
 
 
安倍政権が取り戻したいのは、こうした時代の日本なのでしょう。政治家の多くが世襲となり、中には、祖先が「戦犯」と烙印を押されたままの人もいるでしょう。
 
 
 
 
そうした人たちは、先の大戦をなんとか正当化したいと悪知恵を働かせています。
 
 
 
 
都合の悪い歴史は、塗り替えてしまう。なんというお粗末な考え方なんでしょう。
 
 
 
しかし、権力を持ったもの勝ちですから、徐々に、環境を変えていくのでしょう。残念です。
 
 
 
衆議院選挙で圧勝した安倍政権、これからが本領発揮でしょう。これからの4年間は、取り戻せない4年間になるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
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