野茂投手、ご苦労様でした。
日本人野球選手の大リーグ進出の先駆けであり、同時に日本人に「大リーグ」を身近に感じさせるきっかけともなりました。
実は、野茂投手のお父さんは、五島市奈留町出身でおばあちゃんが奈留町に住んでいたこともあり、野茂投手自身も何度となく奈留町を訪れていたと言うことです。
そうしたこともあり、この記事に対する感慨はひとしおでした。
そうしたこともあり、この記事に対する感慨はひとしおでした。
本当に、ご苦労様でした!
どうぞ、ゆっくり休み、次の人生にチャレンジしてください。
どうぞ、ゆっくり休み、次の人生にチャレンジしてください。
あ、五島へも休養に来てね。
野茂 英雄(のも ひでお、1968年8月31日 - )は、元プロ野球選手(投手)。 大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法から繰り出される、キレのあるストレートと2種類のフォークボールが特徴で、どの球もほぼ同じフォームで投げられることも武器である。なお、この投法は公募により「トルネード投法」と命名された。 [編集] 所属 成城工高 - 新日鐵堺 - 近鉄バファローズ - ロサンゼルス・ドジャース - ニューヨーク・メッツ - シカゴ・カブス(マイナー契約) - ミルウォーキー・ブルワーズ - デトロイト・タイガース - ボストン・レッドソックス - ロサンゼルス・ドジャース - タンパベイ・デビルレイズ - ニューヨーク・ヤンキース(マイナー契約) - シカゴ・ホワイトソックス(マイナー契約) - カンザスシティ・ロイヤルズ [編集] プロ入り以前 小・中学校時代の野茂は全くの無名選手であった。この頃すでに「体を捻って投げると直球の威力が増す」と考え、トルネード投法であった。名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格(当時、セレクションを受けた野球部の監督は『そんな体を捻る投球フォームじゃ、絶対大成しない』と言って野茂に目をかけなかった[要出典])、高校野球全国大会とは縁の無い公立高校に進む。 成城工高時代には2年生からエースとなり、選手権大会大阪府予選では2年生の時に完全試合(2回戦、対生野高)、3年生の時はベスト16(5回戦)進出等の成績を残す。 高校卒業時、この時すでに近鉄から誘いがあったが野茂は断り、ノンプロ・新日鐵堺への入社を選ぶ。新日鐵堺での1年目、野茂は「伝家の宝刀」フォークボールを習得。2年目はエースとしてチームを都市対抗に導き、日本代表に選ばれ、1988年のソウルオリンピックでの銀メダルに貢献する。名実共にアマNo.1投手となった野茂はその進路が注目されたが、1989年のドラフト会議前、野茂はどの球団から指名されても入団することを明言する。 [編集] 日本プロ野球時代 1989年のドラフト会議で、史上最多の8球団(阪神、ロッテ、ヤクルト、大洋、ダイエー、日本ハム、オリックス、近鉄)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。契約金は史上初の1億円台(1億2000万円)、年俸1000万円。契約時、投球フォームを変更しないという条項が付け加えられた。 1990年4月10日、対西武戦でプロ初登板(藤井寺球場)。その後先発しながら白星の付かない試合が続いたが、4月29日、対オリックス戦(西宮)に先発し初勝利した(プロ4試合目)。完投で17奪三振の1試合奪三振数日本タイ記録(当時)を樹立し、「ドクターK伝説」の幕開けを飾るにふさわしい勝利を飾った。 結局この年、新人ながら最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と主要四冠を独占。ベストナイン、新人王、沢村賞、そしてMVPに選ばれ、プロ野球界に「旋風」を巻き起こした。パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった。現在までに権藤博、堀内恒夫、上原浩治が新人王と沢村賞、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂のみである(ただし、木田に関しては1988年まで沢村賞の受賞対象がセ・リーグ限定だったためという事情がある)。 1990年~1993年の4年間、最多勝利と最多奪三振のタイトルを独占。新人年から4年連続最多勝利は勿論、4年連続最多勝利のタイトルを獲得した投手は野茂のみである。立花龍司トレーニングコーチとの「太く長く」を目指したトレーニングも功を奏した。 プロ5年目の1994年、西武との開幕戦で8回までノーヒットノーランに抑えた(4回までに11奪三振を記録)が敗戦。この年は右肩痛のため年間通じて目立った活躍が出来なかった。 [編集] メジャーリーグ時代 1994年、複数年契約と代理人制度を希望したが、拒否されたため近鉄を退団して、メジャーリーグに挑戦する。自由契約ではなく任意引退扱いなので日本プロ野球界に帰った場合、近鉄に保有権があることになった。なお、2005年以降は近鉄と合併したオリックスに保有権がある。 1995年、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。5月2日にジャイアンツ戦で先発投手としてキャンドルスティック・パークのマウンドに立ち、村上雅則以来31年ぶり、2人目のメジャーリーガーとなった。日本人メジャーリーガーの先鞭をつけ、パイオニアとしての功績をたたえられている。オールスターでは、先発で出場した。13勝6敗、236奪三振の成績で新人王、奪三振王のタイトルを獲得する。日米両国で新人王を受賞したのは現在野茂ただ1人である。 1996年9月17日の対ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成。1998年4月28日に、日本人メジャー1号本塁打を記録。しかし、シーズン途中でニューヨーク・メッツにトレードされた。1999年、開幕直前にメッツから解雇され、シカゴ・カブスとマイナー契約。さらに、カブスからミルウォーキー・ブルワーズにトレード。2000年、ブルワーズからデトロイト・タイガースにトレード。日本人初の開幕投手になり勝利した。 2001年、タイガースからボストン・レッドソックスにトレード。4月4日の対ボルチモア・オリオールズ戦で1996年に次ぐ2度目のノーヒットノーランを達成。両リーグでのノーヒットノーランはノーラン・ライアン以来メジャー史上4人目。2002年、レッドソックスからロサンゼルス・ドジャースに復帰。2004年、11月初めにフリーエージェントを申請。 2005年はタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。6月15日のブルワーズ戦で7回2失点と好投し、日米通算200勝を達成する。7月16日に戦力外通告を受け、10日後に解雇。7月27日、ニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約。 2006年3月3日にシカゴ・ホワイトソックスとのマイナー契約。4月17日、3Aシャーロット・ナイツの先発として初登板したが、右ひじの炎症を理由として故障者リストに登録される。6月8日、契約解除。同月下旬には右ひじを手術した。 2007年、ドミニカ共和国でのウインターリーグ参加を検討したが、回復が思わしくないことから断念。リハビリに専念するため、どのチームにも所属していない状態が続いた。その後、ベネズエラのカラカス・ライオンズに入団。ベネズエラでのウインターリーグへの参加が認められる。10月20日のグアイラ戦で、1回1イニングだけだが1年半ぶりの登板を果たす。被安打1、三振0、四死球0、失点0。 2008年1月4日にカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約[1]。手術した右肘への負担を軽減するため、トルネードの大きな特徴であったワインドアップ・モーションをやめ、セットポジションに投法を統一する。4月5日にメジャー昇格[2]の後、同月10日、2005年7月15日以来1000日ぶりにメジャーで登板した[3]。しかしその後結果は残せず、4月20日にロイヤルズから戦力外通告を受けた[4]。 2008年7月17日、現役引退を表明。 【ウィキペディアより】