長崎原爆の日やお盆の祈り・・・
皆さん、お早うございます。
五島地方、今日も、晴れ空(時折、にわか雨)でスタートです。
幼い頃、長崎原爆の日などと言う知識も意識もなく、ただ、ただ、遊び呆ける日々。
熱い陽射しの中、ボーっと眺めていた入道雲。
何の憂いもなく、ただ、この後は、何をして遊ぼうか、とだけ考えて入道雲を眺めていました。
あの感覚を取り戻したいと思うのですが、雑念が・・・。
様々な欲望や長い時の流れの中で蓄積してきた悪行のへの慚愧の想いで、心の中は雑念だらけ。
仕方ないか・・・。
そんなワシの想いなんか、関係なく、明日は、8月9日・長崎原爆の日。
ワシの母が、中学1年生の夏。
爆心地から1.2kmほど南東の所にある西坂小学校。
そのすぐ上の民家の前で遊んでいた時に、あの飛行機が飛んで来たそうです。
ピカッ!!
あとは覚えていないそうです。
気付いたら、遊んでいた民家の中に吹き飛ばされていたそうです。
その後は、ひたすら逃げた。
遠くへ、遠くへと歩き続け、立山の防空壕までたどり着いたそうです。
なぜ、そこに逃げたのかは分かりません。
親兄弟との申し合わせだったのか、他の誰かに誘導されたのか。
暗い防空壕の中で、ただただ、じっと息を押し殺していたそうです。
何日たったのか、分からないが、探し出され諫早に疎開したそうです。
母から、こんな話を聞けたのは、母が亡くなる数年前のこと。
母は、ずっと語らなかった。
語れなかった。
被爆者であることは聞いていたが、あの日、『あったこと』は話さなかった。
全てを語った日、母は、苦しそうに言った。
『あの時、一緒に遊んでいた友達が、どうなったのか、分からない。あそこに、一緒に飛ばされていたかもしれないけど、自分は、自分が逃げるので一生懸命で、友達のことを探さなかった。』
私たちは、広島や長崎の悲劇を繰り返してはならないと、6日や9日に、家族で黙とうをささげていました。
その時、母が、どのような思いを抱えていたのか、誰も考えもしなかった。
原爆だけでなく、通常兵器で叩き潰される生活が、今もある。
攻撃を命令した人間も、その悲劇を報道する人間も、そして、それらを受け取る人間も、普通の朝を迎え、一日を送り、寝る。
ワシら日本人は、長崎原爆の日が終わると、次は、お盆の準備で忙しい。
そこでも祈りをささげる。
今日も最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
今日一日が、皆様にとりまして、素晴らしい一日となりますようお祈りいたします。
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<8月8日の誕生花>
アザレア
花言葉:節制、禁酒、恋の喜び
<画像は、ネットからお借りしています>